みちのくの山野草

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4187 伊藤ちゑと『二葉保育園』 

2014-10-16 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
キリストの愛の精神
 この度社会福祉法人『二葉保育園』から頂いた『リーフレット』には、同園は
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています。
            <『二葉保育園 リーフレット』より>
とその理念を掲げている。
 そしてこの理念は同園の設立当初からのもののようであり、『光りほのかなれど』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、
 二葉幼稚園は明治33年に野口幽香と森島美根によって設立、創立当時から貧民子女のための慈善幼稚園として歩み始めという。大正5年、社会制度の変化に合わせて幼稚園から保育園に移行。同時に分園を設立、徳永恕が主任となった。同保育園の仕事はいわば<セツルメントーハウス>のようなものであった。
 そして、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、野口は同園でキリスト教集会を開いていた。一方の徳永はクリスチャンらしくないクリスチャンだった。
ということ等が述べてあった。ちなみに、伊藤ちゑが二葉保育園に勤めていた頃の同園の実質的責任者は徳永と判断できるので、ちゑもキリスト教精神の影響を少なからず受けていたであろう。

ちゑのセツルメント精神
 さて、ちゑが『二葉保育園』に勤め始めたのが大正13年9月からであったということだから、それは関東大震災の一年後のことであり、しかも同園は罹災したままでありまだ園舎は再建される前のことになる。ではなぜこの時期にあえてそこにちゑは飛び込んだのだろうか。
◇兄七雄にも似て
 その時にまず思い出されるのが澤村修治氏が紹介する、ちゑの兄七雄の勇気ある次のようなエピソードである。関東大震災後直後といえば、大杉栄を始めとする無政府主義者・社会主義者や罪もない朝鮮人への凄まじい虐殺や弾圧がなされたということだが、そのような時に、
 関東大震災のとき朝鮮人騒動のデマが飛び、朝鮮人や民衆が官憲テロの対象になったことがある。このとき七雄は、自分が経営する長白寮に居住する朝鮮人二十数名を守り抜いたといわれる。
              <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)167p~より>
のだそうだ。そして、続けて澤村氏は七雄のことを
    社会主義者の面目躍如である。正義感がつよく、度胸も知恵もある好漢であった。
と大いに褒めている。どうやら、七雄・ちゑ兄妹は互いに影響し合いながら(それは、その後の兄への献身的な看護からも読み取れる)同じような考え方を持つようになっていて、共に、とりわけ今困っている人たちのために己のことは顧みず手を差し伸べるという姿勢の持ち主であったようだ。
 なお余談だが、この大震災の時の東京市長は永田秀次郎(第一期が大正12年5月~13年9月で、第二期が昭和5年5月~8年1月)だったというが、七雄は東京市長の秘書をしていたということだからおそらく第一期の時にそうであった可能性が高かろう。ではなぜ七雄は東京市長の秘書をしていたのだろか、その理由はわからぬが、想像を逞しくして言えば、永田の前の市長は後藤新平、そしてその出身地は岩手県水沢、七雄・ちゑ兄妹ももちろん岩手県水沢である(それぞれの生家の間の距離は500m程もない)から、そのような地縁があって後藤新平のつてでそうなことになったのたかもしれない。
◇右の手のしたることを左の手に知らせなるな
 それから次に思い出されるのが、萩原昌好氏が紹介する心温まるちゑの次のようなエピソードである。それは、昭和五年の地元の新聞に載ったもので、
 ところでチヱさんには、特記事項がある。「島乃新聞」昭和五年九月二六日付の記事に
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
とあって、島の老女に同情を寄せたチヱさん(当時二三歳)が、
(前略)大正十五年夏転地療養中の現在北の山在住の伊藤七雄氏の看病に来島した同氏の妹本所幼稚園保母伊藤千枝子(本年二十三才)は隣のあばら家より毎夜開(ママ)かるゝ藁打ちの音にいたく心を引かれ訪ねたところ誠に哀れな老婆なるを知り、測(ママ)隠の心頻りにして滞在中実の母に対するが如く何彼と世話し、七雄氏全快とともに帰京し以後今日まで五六年の間忘るゝことなく毎月必ず五円の小為替を郵送して此の哀れな老婆に盡してゐるが誠に心持よい話である。
という記事が見える。
            <『宮澤賢治「修羅」への旅』萩原昌好著、朝文社)317p~より>
 つまり、大正15年に伊豆大島に兄の看病のためにやって来たちゑは、同島に滞在していた間はその気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後東京に戻って「二葉保育園」に復職していた期間もその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたことがこれで判る。当時の「二葉保育園」の給与は薄給(推測だが、おそらく20円前後?)であったことは間違いないから、自分の身を削ってまでして特別繋がりがあったわけでもない老婆に援助をし続けるちゑの献身振りは見事であると言えよう。
 なお、過日(平成26年9月25日)、ちゑの実家の現当主にお伺いしたところちゑはクリスチャンではなかったようですということだったが、この老婆に対するちゑの姿勢はまさしく
    「右の手のしたることを左の手に知らせなるな」
と言える。聞くところによると、ちゑは「翔んでる女」であったとも言われているようだが、それは「アプレゲール」というような意味でのそれではなくて、それまでの一般的な女性とは違って積極的に社会にコンタクトしていこうとする女性だったという意味でのそれだったのではなかろうか。とまれ、ちゑのセツルメント精神は本物であったと言えよう。

恕から感化を受けるちゑ
 これらの二つのエピソードだけから判断しても、当時スラム保育にひたむきに取り組んでいた『二葉保育園』へ伊藤ちゑは自ら進んで身を投じていったのであろうと推測することはそれほどの間違いではなかろう。おそらく実質的な同園の園長であった徳永恕の徹底振りには及ばなかったかもしれないが、底辺に置かれた子どもたち等に手を差し伸べてやって彼らのために力になりたいと願うちゑの社会的な意識はかなり高く強かったことはもはや疑いようがない。
 先に触れたように、『光りほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』の作者が恕のことを
 しかも『聖書』が「マタイ伝」第五章(ママ)において教えるとおり「右の手のしたることを左の手に知らせなかった」彼女を、心底より立派な女性であったと思う。
と褒め称えているが、前掲の記事からも、同園に勤め始めてから後のちゑが恕から大いに感化を受けていたであろうことも容易に想像がつく。

 なお前回、ちゑが同園に就職した際のことについて
    このときはまだ18歳、盛岡高等女学校卒業1年後の同園への就職だったのだろうか。
と私は述べたが、当時は高等女学校を出ただけでは保母の資格は取れなかったようだから、おそらくちゑは高等女学校卒業後一年間「補習科」に通ってその資格を得たと考えられるから、就職した時の年齢が18歳であったということはそれ程不思議なことではないこともわかった。

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