みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

四 ブドリのおこない、賢治のねがい(寿量品)

2018-12-18 10:00:00 | 賢治渉猟
《『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)》

 國分は次のようなことも述べている。
 セロひきのゴーシュが賢治自身だとすれば、賢治は、村人や町の人といろいろはなしあうときでも、あるいはその人たちのすることをじっとみているばあいでも、名もないあたりまえの人から、多くのものを学びとることことができたということを、ものがたってるのではないかとおもいます。
 「野の師父」のような時にも、こういう気持ちが出ているようです。この詩では、七十すぎるまで、苦労してはたらいていた農夫あなたといっしょになって、法華経の寿量品をまもっていこうとよびかけています。…(投稿者略)…つまり賢治は、われわれそのままにまじめなもの、あたりまえなものをすくってくれるものは、どこかにいるのだから、「先生よ、いっしょにしっかりやりましょう」と老農夫によびかけているのです。
……①
             〈『宮澤賢治』(國分一太郎著、福村書店)60p~〉
 ということは、賢治の作品「セロひきのゴーシュ」にも「野の師父」にも「法華経」の教えが織り込まれている思う、と國分は言いたいのだろう。そこで、まずは「野の師父」の中身を見てみよう。それは、
    一〇二〇   野の師父
   倒れた稲や萓穂の間
   白びかりする水をわたって
   この雷と雲とのなかに
   師父よあなたを訪ねて来れば
   あなたは椽に正しく座して
   空と原とのけはひをきいてゐられます
   日日に日の出と日の入に
   小山のやうに草を刈り
   冬も手織の麻を着て
   七十年が過ぎ去れば
   あなたのせなは松より円く
   あなたの指はかじかまり
   あなたの額は雨や日や
   あらゆる辛苦の図式を刻み
   あなたの瞳は洞よりうつろ
   この野とそらのあらゆる相は
   あなたのなかに複本をもち
   それらの変化の方向や
   その作物への影響は
   たとへば風のことばのやうに
   あなたののどにつぶやかれます
   しかもあなたのおももちの
   今日は何たる明るさでせう
   豊かな稔りを願へるままに
   二千の施肥の設計を終へ
   その稲いまやみな穂を抽いて
   花をも開くこの日ごろ
   四日つゞいた烈しい雨と
   今朝からのこの雷雨のために
   あちこち倒れもしましたが
   なほもし明日或は明后
   日をさへ見ればみな起きあがり
   恐らく所期の結果も得ます
   さうでなければ村々は
   今年もまた暗い冬を再び迎へるのです
   この雷と雨との音に
   物を云ふことの甲斐なさに
   わたくしは黙して立つばかり
   松や楊の林には
   幾すじ雲の尾がなびき
   幾層のつゝみの水は
   灰いろをしてあふれてゐます
   しかもあなたのおももちの
   その不安ない明るさは
   一昨年の夏ひでりのそらを
   見上げたあなたのけはひもなく
   わたしはいま自信に満ちて
   ふたゝび村をめぐらうとします
   わたくしが去らうとして
   一瞬あなたの額の上に
   不定な雲がうかび出て
   ふたゝび明るく晴れるのは
   それが何かを推せんとして
   恐らく百の種類を数へ
   思ひを尽してつひに知り得ぬものではありますが
   師父よもしもやそのことが
   口耳の学をわづかに修め
   鳥のごとくに軽佻な
   わたくしに関することでありますならば
   師父よあなたの目力をつくし
   あなたの聴力のかぎりをもって
   わたくしのまなこを正視し
   わたくしの呼吸をお聞き下さい
   古い白麻の洋服を着て
   やぶけた絹張の洋傘はもちながら
   尚わたくしは
   諸仏菩薩の護念によって
   あなたが朝ごと誦せられる
   かの法華経の寿量の品を
   命をもって守らうとするものであります
   それでは師父よ
   何たる天鼓の轟きでせう
   何たる光の浄化でせう
   わたくしは黙して
   あなたに別の礼をばします
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
というようなものである。
 かなり難解な詩だが、もちろん、法華経の寿量品(法華経の寿量の品)が詩の中に出てきていることは直ぐわかる。ではこの「寿量品」についてだが、國分は続けて、
 「仏はもう死ぬぞ、もう死ぬぞというけれども、幾百幾千万億の幾倍という数の幾万億倍よりもっと長い間生きているのだよ。つまりいつでも生きているものだよ。また仏は、めったにこの世の中に出て来ないないものだぞ、運のわるい人になると、幾百幾千万億のという時代のあいだに、ひょっとしたら会えるかもしれなし、会えないかもしれないぞ、といっているけれども、じつはいつでも、この世の中のどこかに生きているのだぞ」というようなことをかいてある部分です。
と補足している。
 しかし、一読しただけでは狐につままれたと感じるようなことを補足されても、対象の読者層である中学生が〝①〟の後半を理解できるのだろうか。少なくとも老いぼれた70過ぎの私は、そもそも「野の師父」の理解に苦しむし、この「寿量品」の補足説明が曖昧模糊というのか、自己撞着しているような気がしてすごすごと引き下がってしまう。
 それは、天沢退二郎氏は、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
            <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
というように、「野の師父」は容易に還元を許さない詩であると評しているし、私もそのとおりだと思っているからなおさらにである。

 そこでいっそのこと見方を変えて、法華経には沢山の譬え話(「長者窮子の譬え」とか「薬草の譬え」などの)が語られているから、そもそも「野の師父」とは賢治がそのような譬え話を自分でも創り出そうとしてチャレンジした作品であったということはなかっただろうか。

 あろいは、私自身の力不足、非力さを棚に上げていることは承知で言うのだが、もともと懐が広くて深いのが法華経なのだから、どんな事でもどんな場合でもそこに法華経の教えが織り込まれていると言えば言えるのではなかろうか、ということを私は最近感じ始めている。
 そこで巡り巡って最初の話に戻るのだが、國分の言うところの「村人や町の人といろいろはなしあうときでも、あるいはその人たちのすることをじっとみているばあいでも、名もないあたりまえの人から、多くのものを学びとることことができた」は、何も賢治独りに限らず多くの人びとが実際にそうなのではなかろうか。しかもそれは何も人間に関してだけではなく、例えば、道端に転がっている石っころからも学びとることができる、というようにだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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