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「伊藤勇雄年譜」(生涯)

2018-10-14 14:00:00 | 伊藤勇雄関連
〈伊藤勇雄〉(『夢なくして何の人生ぞ 伊藤勇雄の生涯』の見返しより)

 では、久保田好唯著『夢なくして何の人生ぞ』に所収されている「伊藤勇雄略年譜」を元にして、伊藤勇雄の誕生から死没までの、一生分の簡単な年譜を今回はいよいよ完成させてみよう。
《「伊藤勇雄年譜」》
明治31年
 9月11日 岩手県東磐井郡薄衣村字堀田百五番地に長男として生まれる。
明治38年(7歳)
 薄衣村尋常高等小学校へ入学
大正2年(15歳)
 3月24日薄衣尋常高等小学校を首席で卒業。同時に、農夫として働く。この頃、薄衣郵便局の郵便配達夫となる。またアメリカ帰りの加藤良之助の私塾で英語を、大村亮平の私塾で漢文を学ぶ。
大正3年(16歳)
 この頃、牧師加藤良之助の感化を受けてキリスト教の洗礼を受ける。
大正4年(17歳)
 12月 仙台の北部逓信通信生養成所に入所。
大正5年(18歳)
 5月 北部逓信通信生養成所卒業後、薄衣郵便局通信事務員となる。
大正6年(19歳)
 この頃、加藤とみえと結婚。
大正7年(20歳)
 この頃、単身上京。中央電信電話局に勤務。
大正8年(21歳)
 この頃、東京中央電信局に勤務。夜は英語学校に学び、キリスト教に熱中する。
大正9年(22歳)
 11月頃、麹町の屋敷で武者小路実篤と会い、彼の勧めで九州日向の「新しき村」へ行く。
大正11年(24歳)
 秋、新しき村で突如、天啓の如く「人間宗教」に開眼する。また有島武郎訳「ホヰットマン詩集」に感銘を受け、ホイットマンとは終生離れられないものとなる。この頃から、詩を書きはじめる。
大正12年(25歳)
 「新しき村」より上京し、再び労働と苦学の生活に入る。9月1日関東大震災に遭う。朝鮮人と間違えられ、危うく殺される目に遭う。九死に一生を得て帰郷。
大正13年(26歳)
 この頃、薄衣郵便局に勤務し、通信士となる。11月3日、詩集「名乗り出る者」処女出版。
大正14年(27歳)
 この頃、大地を支えている貧しい農民や労働者と苦楽を共にしようと決意し、農民運動家、労働運動家となる。
大正15年(28歳)
 3月、千厩町の千葉七郎、今野哲夫が勇雄の自宅に集まり、労働農民党支部結成の相談をする。この頃、労働農民党両磐支部長となる。
昭和3年(30歳)
 普通選挙法制定後初の総選挙が実施され、労働農民党の泉国三郎候補の選挙運動に没頭。
 3月15日、いわゆる三・一五事件で勇雄も検挙される。
 北上川工事賃金不払い問題の争議を指導。佐藤ツギと結婚。
 10月4日、陸軍大演習にあたって、一週間以上拘置される。
昭和4年(31歳)
 7月、千葉七郎、今野哲夫らと「岩手文芸」を創刊、編集発行人となる。
昭和5年(32歳)
 2月、総選挙にあたって泉国三郎候補の選挙運動に没頭。
昭和6年(33歳)
 全国労農大衆党岩手県支部連合会を結成。東磐実費診療所・薄衣実費診療所を開設するため、岩手医学専門学校を訪問し、三田俊次郎と初めて会う。
昭和7年(34歳)
 総選挙に再度泉国三郎候補の選挙運動に没頭。この頃、産業組合の再建、産青連運動の推進に当たる。4月、永井村の農地取り上げ、小作問題の争議を指導。5月5日、千葉七郎らと会員制の東磐実費診療所、薄衣実費診療所し、その経営に当たる。7月、社会大衆党岩手県支部が結成され、東磐支部長となる。
昭和8年(35歳)
 産青連東磐井郡連合の副理事長となる。その後、理事長となる。5月、薄衣村村会議員に立候補し、当選。
昭和9年(36歳)
 「購買利用組合東山病院」の専務理事となる。
昭和12年(39歳)
 9月、詩集「名乗り出る者」第一集を自費出版
昭和14年(41歳)
 砂鉄川漁業組合をつくり組合長となる。
昭和15年(42歳)
 繰り上げ当選で岩手県議会議員となる。
昭和17年(44歳)
 「大和教」をつくり宗教団体として届出に協力。
 この頃、県淡水魚集荷統制株式会社専務取締役となる。
昭和19年(46歳)
 この頃、岩手県河川漁業振興会会長となる。
昭和21年(48歳)
 2月9日、社会党東磐井支部結成大会を開き、支部長となる。
 2月24日、日本農民組合岩手支部連合結成大会で会長となる。
 初春、紫波郡煙山村赤林へ移る。
 9月21日、日本社会党岩手県支部連合第二回臨時大会で執行委員となる。
昭和23年(50歳)
 この頃、岩手県小作調停委員となる。
昭和25年(52歳)
 10月15日、岩手県教育委員にトップ当選。
昭和26年(53歳)
 この頃、福井エソと結婚。
 10月10日、詩集「名乗り出る者」第二集を自費出版。
昭和27年(54歳)
 5月15日、外山高原薮川地区開拓地へ入植。
 この頃、薮川開拓組合を設立し、組合長となる。
昭和28年(55歳)
 外山開拓地に電気導入の運動を起こし、その電気がつく。
昭和30年(57歳)
 この頃、外山畜産産業農業協同組合長となる。5月23日、岩手県教育委員長となる。12月18日、日本社会党岩手県連合統一大会で顧問となる。
昭和32年(59歳)
 この頃、「人類読本」出版。6月、日赤薮川診療所を開設。
昭和34年(61歳)
 岩手県開拓者連盟委員長となる。
昭和36年(63歳)
 5月、勇雄の開拓した所が外山早坂高原県立自然公園となる。
 7月、岩洞湖畔に住居を移す。
昭和39年(66歳)
 詩集「名乗り出る者」第三集出版。
昭和41年(68歳)
 パラグアイへの移住を決意。
昭和43年(70歳)
 5月、パラグアイ共和国イグアス移住地へ入植。
昭和50年
 1月8日歿(76歳4ヶ月)

 こうして伊藤勇雄の年譜等を眺めてきて、60歳頃までの活躍振りを知っただけで、普通であれば彼は功なり名遂げたといわれるはずの人物だと私は思ったのだった。が、それが何と、69歳になって勇躍海外へ移住して南米の開拓地に入植して、そこに「文化人類学園」を建てようとしたということも知り、勇雄の熱い想いと高き理想は素晴らしくて、見事だとつくづく思った。
 このような凄い人物が岩手にいたということをこの度初めて知り、伊藤勇雄はもっともっと世間からも評価されてしかるべきだと私はつくづく思った。そしてそれは、勇雄と同時代に暮らし、世に評価の頗る高い賢治の一生と比べればよりその必要性が明らかになるのではなかろうかと、ふと気付いたのだった。
 どうやら、勇雄の座右の銘は「夢なくして何の人生ぞ」であったようだが、単に夢に思い描くだけではなく、それを実現せんとして実践し続け、一生を終えた伊藤勇雄という人物の一端を知り、私には新しい座標軸が一本見つかったような気がしてきた。

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