みちのくの山野草

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発足当時の「新しき村」評

2018-10-13 12:00:00 | 伊藤勇雄関連
〈伊藤勇雄〉(『夢なくして何の人生ぞ 伊藤勇雄の生涯』の見返しより)

 さて、伊藤勇雄が「新しき村」の村内会員であったことを『「新しき村」の百年』(前田速夫著、新潮社)によって確認できたわけだが、同書に目を通していたところ、発足当時の「新しき村」評が幾つか述べてあった。
・初期の創作で大いに注目され、白樺派の領袖とみなされていた実篤が、順風満帆だった文筆をよそに、鳴り物入りで始めた新しき村が、早くもつまずくのを知って、識者も世間も、それ見たことかと嘲笑った。
・「新しき村」なんて、人気取りの為の奇行ですな。…(投稿者略)…百姓をしたって、何が出来るもんか。
・白樺派の坊ちゃんが、其労働論を以て、天下を指導せんとするなどは、世間知らずにも程がある。況んや新しき村の断片的努力を以て、世界の新人を気取るに至りては、もとも生真面目なる狂気の沙汰と評するの外は無い。
            〈「新しき村」の百年』(前田速夫著、新潮社)56p~〉

 私はこれらの「新しき村」評を読みながら、賢治の「羅須地人協会」については実は結構厳しく見られてもいたという、次のような賢治評を思い返していた。 
 ・「えたい」のしれない「ずほぅだい」(勝手気儘)なことをやりはじめた。
 ・金持ち息子の道楽
 ・宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまった

 そして、当時既に世間から注目されていた実篤にしてしかりなのだから、賢治がこのように言い立てられたのも止むなしと思ってしまう。そしたまた、周りが冷笑していたということもある意味当然のことであった、ということになりそうだ。

 それから、「新しき村」にしても「羅須地人協会」にしても、時代の流れの中で見てみることも必要であろう。このことに関しては、菊池忠二氏が『賢治散歩 下巻』の中で、「大正末期から昭和初期にかけて、全国的に農民のための私塾や、各種の学校が数多くつくられている」と説明を付して、次のようなものを例示している。
 「新しき村」(大正七年・武者小路実篤・宮崎県)
 「共存道場」(大正十四年・星田金之助・栃木県)
 「羅須地人協会」(大正十五年・宮澤賢治・岩手県)
 「日本農民福音学校」(昭和二年・賀川豊彦・兵庫県)
 「日本国民高等学校」(昭和二年・加藤完治・茨城県)
 「農村青年共働村塾」(昭和二年・岡本利吉・静岡県)
 「瑞穂精舎」(昭和三年・和合恒男・長野県)
 「神風義塾」(昭和四年・山崎延吉・三重県)
 「農村公民義塾」(昭和四年・富山県)
 「愛郷塾」(昭和六年・橘孝三郎・茨城県)
 「日本農士学校」(昭和六年・安岡正篤・埼玉県)
 「最上共働村塾」(昭和七年・松田甚次郎・山形県)
            〈『賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)163p〉
 
 ということは、
 その嚆矢が武者小路実篤の「新しき村」であり、その流れの中の一つが「羅須地人協会」であったという見方ができそうだ。
つまり、賢治だけが、というわけではなく、賢治もその一人だったということになりそうだ。

 さて、では、後々「新しき村」や「羅須地人協会」の運動や活動は歴史からどう評価されるかのだろうか。

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