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みちのくの山野草

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新潟 中川義一

2020-08-20 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 では、今回は新潟の中川義一の寄せた次のような追悼についてである。
    松田甚次郎先生を追憶す 
     新潟 中川 義一 
噫々 八月四日昭和十八年八月四日は恩師松田甚次郎先生逝去の日であります。
此度の先生の追悼号発刊されるに際し先生追悼の感止み難く拙文を以て特に忘られぬ一・二の思ひ出をたどり偉大なりし先生の御霊に合掌すると共に自らをも慰めんとするものであります。然し私は偉大なる農民であられた先生の總てを知らず先生の御心の深さは到底私は知ることの出来ないものでありました。昭和十三年七月草深き私の村に先生を御迎へしてから、六年貧しき弟子としてその間指導を仰ぎそれは実に無量でありました。
十三年晩秋焼失前塾舎の地均の手傳ひをしてゐた時先生は次の様な教訓をして下されました。「中川君、小野先生も常に云はれるのであるが義農ならねばならぬ、義に強き農民として生きて呉れ」そして先生は一人言の様に鳥越の義農刈谷翁の事を静かに話されました。その当時学園を巣立つて間もない私はあやまつて農業即金儲の手段方法と云ふ考へにとらはれ収入度髙き経営を夢見、これが求むべき道であるかの如く考へていたのであります。在塾の五日間早くも私の誤れる心を知つた先生は眞の皇国農民として生きよと御教下されたのであります。
現在貧しき乍らも国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇と責任を感じて暮す事の出来るのも先生の御教訓によるのであると思ひます。
 それから年月流れて佐渡郡共勵委員の講師として昨年六月再び佐渡に御迎へする事が出来ました夷港で御会して先生から受けた感じは全身からあふれる様な崇高の気を感じ六年の間の先生の御生活が私の頭に刻まれ又通り過ぎてゆきました。
出征して病の為に長い療養をしていた私を心配していられた先生は全快した私を見て「何よりうれしい」と心から喜んで下さいました。秋霜の如く弟子の誤れるを導かれる先生も反面春風の如き暖かさを以て弟子を愛されたのでした。又先生は実に時間を嚴守なされる方であり、約束は必ず実行なされる方でありました。昨年六月渡しの不注意から出立の時間が三十分遅れた時、先生は時間の尊さを話され、嚴守の必要を説かれました。私はその時前非を悔ゆる冷汗が止めどなく脇下から流れたのを忘れられません。
旅行をなされても必ず四時に起床して神社に奉拝なされ後静かに思索にふけつてゐられた先生噫々先生は偉大なる足跡をのこして逝かれました。然し先生の訓滅ず土の叫びは皇土の隅々まで愈々しみゆく事を信じます。
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)32p〉

 今回まず触れておきたいのは、「中川君、小野先生も常に云はれるのであるが義農ならねばならぬ、義に強き農民として生きて呉れ」という教訓についてである。今までも何度か話題にしたように、賢治や甚次郎を「農聖」とか「聖農」と称えていた人がいたが、甚次郎自身はそうではなくて自分は「義農」でありたいと心に決めていたと言えるであろうということをだ。それは、鳥越の義農刈谷翁を崇敬していたと言える<*1>からだ。そして、甚次郎周辺の人達もそう思っていたことも間違いなかろう。のみならず、鳥越八幡宮に建っている石碑も”義農松田甚次郎先生碑”と刻まれていたからである。さらに、この『追悼 義農松田甚次郎先生』のタイトルそのものが、あるいは、この追悼集に所収されている甚次郎の写真、
【「土に叫ぶ義農……松田甚次郎」】

             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)所収〉
のタイトルから、もはやほぼ自明だろう。

 それからもう一つ気になったのが、
 現在貧しき乍らも国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇りと責任を感じて暮らす事の出来るのも先生の御教訓によるのであると思ひます………①
という一文だ。
 というのは先に私は、
とつい口走ってしまったが、もしかすると、この「農民詩人」がそのように誹ったのは、このような発言〝①〟があったということを知ったからなのかなという考えが私の頭の中をかすめたからだ。しかし待てよ、甚次郎自身が「国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇りと責任を感じて暮らす」と公言したという訳でもなく、中川がそのように受け取ったとも言えそうだから、このことについては、今後注意深く見てゆく必要がありそうだ。

<*1:投稿者註> 刈谷翁とは刈谷伊兵衛翁のことであり、甚次郎は次のように『土に叫ぶ』の中で、
 義民刈谷翁 どこのにもその成立発展に多くの犠牲が土台となってゐるが、この鳥越にもさうした事実が幾つもあつて、今に尚その墓があり、盆と正月にはの人々は焼香し、参拝して居る。その名は刈谷伊兵衛翁で、墓は大きな天然石に「刈谷伊兵衛翁之墓」と刻まれ、村を東に眺めて墓地の一番高いところに村の守護として、永久に祀られてゐる
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店) 11p>
と述べていた。

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