みちのくの山野草

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朝鮮 石垣清雄

2020-09-23 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 今回は、海を越えて遠く朝鮮から寄せられた次の「追悼」についてである。
 朝鮮元山府元山里葛麻 敬愛寮 石垣 清雄
始めて「ミソギ場」で水をかぶつて震へ上つた時からもう三年にもなつてゐる。あの頃は時間にも空間にも一向お構ひなしの、ともすると自分の年齢さへ忘れかねない時代だつた。従つて塾の想ひ出と云つても、追悼しなければならなくなつた今の身にとつては「矢張り、吾々は先生を困らせたことの方が多かつたんぢやなかつたのか」と。全く冷汗三斗の思ひである。何せ左藤某君小生等は風呂に入ればすぐ流行歌を唸る方の組だつたし、そう云ふ時は「亦始まつたな」とつぶやかれるだけで、実に『柔よく剛を制す』と云ふ、その典型として第一印象を自分は先生の性格の中からうけてゐる。
国家總力戰と盛に呼ばれてゐる今になつて、1+1=2ではなく1+1=100位にならなければ絶対戰争には勝てぬと、よく協力論法が引き出されるけれど、塾創立前から、塾精神、即全農村の幸福、ひいては「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」との宮沢先生のお言葉に立脚して、營々と努力して来られた先生の姿を、自分は今、在塾時のアルバム中にはつきりうかべることが出来る。三昧境と云ふか、恍惚境と云はうか-何時もすつかりそれになり切つた-その精神を受け継がれた皆さんが、涙を拭つて起ち上がられたからには、今までの百の力がキツト千にも萬にも上りかけておることでありませう。こう思ふとこの追悼号によつて充分に先生の霊をお慰め出来る様な気がして參ります。
 なき人の力ぞ今や千になり萬にこそなれ決戰の秋
             〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)より〉

 この追悼でやはりなと思ったことは、『柔よく剛を制す』である。甚次郎の性格であればさもありなん。そこで甚次郎の性格を知っている塾生は、「「亦始まつたな」とつぶやかれるだけで」甚次郎の言いたいことを直ぐに察知・理解し、しかるべき対応をしたのであろう。
 するとこの時思い出すのは、羅須地人協会時代に賢治と一緒に暮らした千葉恭の次のような証言である。 
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
             <『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
 どうやら、賢治と甚次郎の指導の仕方は対比的であり、かなり違っていたと言えそうだ。

 次に気になったのが、「国家總力戰と盛に呼ばれてゐる今になつて、1+1=2ではなく1+1=100位にならなければ絶対戰争には勝てぬと、よく協力論法が引き出されるけれど、塾創立前から、塾精神、即全農村の幸福、ひいては「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」との宮沢先生のお言葉に立脚して、營々と努力して来られた先生の姿を……はつきりうかべることが出来る」という記述だ。ほら、最上共働村塾の塾生だった人物が「国家總力戰と盛に呼ばれてゐる今になつて、1+1=2ではなく1+1=100位にならなければ絶対戰争には勝てぬと」と言っているじゃないか、だから、甚次郎が「時流に乗り、国策におもねた」と誹られてもやむを得んだろうと、主張する人もありそうだからだ。
 しかし、これは甚次郎が、「国家總力戰と盛に呼ばれてゐる今になつて、1+1=2ではなく1+1=100位にならなければ絶対戰争には勝てぬと」と言っていたということを証言したものではなく、あくまでも「今になつて……絶対戰争には勝てぬと、よく協力論法が引き出される」だけの話である。いや、それでも甚次郎は「時流に乗り、国策におもねた」と仰る方には、私は逆にこう言いたい。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」が、戦意昂揚に利用されたという事実はないのですか。
 もし松田甚次郎がそう誹られるのであれば、甚次郎の実践は賢治の強い「訓へ」<*1>があったが故でもあるのですからなおさらに、賢治も少なからずそう誹られることはないのですか。実際、「雨ニモマケズ」が戦意昂揚に使われたという事実は否定のしようがないのですから。
 また、時流に乗り、国策におもねた」と誹った当の本人Mに関しては、
 かつて「満蒙の空には侵略主義の鉄砲が轟いてゐる」(『犀』昭和6・10)と記したMも、「建国の頌歌」(『山形新聞』昭16・2・11)をうたい、また、日本文学報国会編『辻詩集』(八紘社杉山書店、昭18・10)に「農村学校」一編を寄せ、銃後の村の少年少女の姿をうたう。戦争讃美の語句はどこにもないが、この詩集の原稿は東京で即売、印税とともども「戦艦献納愛国運動」に役立てられた(大政翼賛会文化厚生部「運動資料第二輯」)。
            〈『近代山形の民衆と文学』(大滝 十二郎著、未來社)153p〉
のだそうだ。
 それから、農村の或者がおもいあがって」とか「鳥なき里の蝙蝠」と甚次郎のことを揶揄したYも、昭和18年には、「仇敵はうちほろぼさむ国ちからあふるる力うちてしやまん」(「まほら」、中央企画社)ということも上掲書で紹介しているのですが。
と、である。
 つまり、MやYがもし甚次郎のことを「時流に乗り、国策におもね」と誹りたいのであれば、実はMやYも甚次郎と似たり寄ったりなのだから、その誹りをひとり甚次郎だけに浴びせるのは如何なものか。
 そしてもちろん、その時代を生きていたわけでもなく今の時代を生きる私が、MやYのことを一方的に非難することは慎重であらねばならない、ということを心に留めておきたい。

<*1:投稿者註> 『土に叫ぶ』の巻頭の「先生の訓へ」の中で、賢治は甚次郎に対し、
 煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)3p> 
とある。

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《出版案内》
 この9月21日、『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))

を出版。その目次は、下掲の通り。

 間もなく県内の書店、アマゾン等で販売されます。
            
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