みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見

2024-02-10 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露





 続きへ
前へ 
 “ 「聖女の如き高瀬露」の目次”へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見
 ではここからは、昭和5年に関わることについてである。
鈴木 昭和5年で問題となるのは、関登久也(本名:徳弥)の『昭和五年 短歌日記』だ。
 実は、平成15年7月29日付『岩手日報』の20面にほらこのように〝賢治に結婚話あった〟という見出しの記事が載ったんだ。そしてこのような報道があった訳はと言えば、関徳弥の『昭和五年 短歌日記』が発見されたからだ。
 そしてその報道内容だが、次のようなものだ。
  賢治に結婚話あった
   親せきの日記に記述 北上の古書店が入手
 歌人で宮沢賢治の親せきに当たる関徳弥(一八九九-一九五七年)が、生涯独身を通した賢治の結婚話について記した日記が見つかった。日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂(まさお)さん(六一)が二十八日、発表した。
  相手は小学校教諭
 関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記に、羅須地人協会の唯一の女性会員で小学校教諭の高瀬露との結婚話の記述があった。盛岡市の賢治研究家、牧野立雄さん(五四)は「(賢治が亡くなる三年前の)昭和五年まで、露との間に結婚話が続いていたことを示す証拠」としている。
 賢治の結婚話は、市販の短歌日記(昭和五年用)に書かれていた。日記に署名などはなかったが、中に昭和六年度版の「年刊歌集」(日本歌人協会編)に収録されている関の短歌が一首つづられており、関の日記と考えられる。
 賢治と露について触れた文章は二カ所。昭和五年十月四日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也」、二日後の六日の欄に「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」とあった。
 四日の記述は「露が関を訪ねた際、関の義母ヤス(賢治の叔母に当たる)が来て怒った」というもの。賢治の親族が、露のことをよく思っていなかったことが背景にあると推測される。六日の「露が来て賢治からもらった本を預けて行った」との記述について、牧野さんは「二人の関係が断たれたことを意味するのではないか」としている。
<『岩手日報』(平成15年7月29日)20面)より>
吉田 確かにこの新聞報道がなされる以前は、賢治に露とのこんな結婚話があったなどということは知られていなかったし、もちろん露が関徳弥の家に出掛けて行ってこんなやりとりが昭和5年にあったなどということも知られていなかった。
荒木 とほほっ。賢治は昭和3年8月からは実家で病臥するようになったので露との関係は自然消滅と言われていたのに、昭和52年になって「昭和4年露宛書簡下書」が突如「新発見」、今度は平成15年になってまたこんな出来事があったということが発覚したというのか。ちょっと変だな。
鈴木 なっ、そう思うだろ。その上、私はこの記事中の日記の写真を見て『何だこれは?』と目を疑った。よく見てみろ。
荒木 ……いやあ、とりたてて変なこともないと思うが?
鈴木 それも無理ないか、確かにこれだと日記の写真が小さいからな。ならばこっちを見てくれ。これが、同日付の『盛岡タイムス』の場合の同日記の写真(下段掲載)だ。こっちならば判
【関徳弥の『昭和五年 短歌日記』の10月5日、6日の日記】

<平成15年7月29日付『盛岡タイムス』より抜粋>
るだろ。
吉田 あっ! そ~か、曜日欄の曜日の部分が明らかに消された形跡がある。
荒木 じぇじぇ、特に左側「十月六日」の曜日欄の〝[ ]〟の中などは、消された跡だということが露骨にわがるじゃ。
吉田 よくよく見てみると、『岩手日報』の方の写真も曜日欄は確かに皆消されている。
荒木 この消し方を見ると、「曜日」が誰かの手によって消されたということはもはや明らかだ。
鈴木 そうなんだよ。それは全く予想だにしなかったことで、それに気付いたときには恐ろしささえも覚えたし、絶対にその真相を探らねばならないと心に決めた。
荒木 といってもな…。
鈴木 実は、関徳弥のご子息とは私の恩師を通じての知り合いだったから、父徳弥の日記等が北上の『日本現代詩歌文学館』に寄贈されていたことは前々から聞いていたのでまずはそこを訪ねてみた。そして徳弥の『昭和三年 短歌日記』は見ることができて、その日記の筆跡と今度新たに発見されたと報道された日記の筆跡は、素人目で見てのことではあるがそっくりだったので、まずは新発見の日記はやはり徳弥のものに間違いがないということを確信した。
 さて問題は次だ。徳弥の『昭和三年 短歌日記』は『紅玉堂書店』が昭和2年12月に発行したものだったが、この枠組みと新聞に載った日記の枠組みは全く同じだったし、共に徳弥が使った日記であれば、どちらの『短歌日記』も共に『紅玉堂書店』発行のものだろう。しかもこちらの『昭和三年 短歌日記』の曜日の欄には曜日がきれいに印刷されていた。ということからは、やはり『昭和五年 短歌日記』の曜日欄の曜日は誰かの手によって意図的に消されたことは百%確かとなった。
吉田 となるだろうな…しかしどうして消さねばならなかったのかだ。
荒木 なあに、そりゃ明々白々だべ。
鈴木 なぜ?
荒木 その日記の表紙には『昭和五年』と印刷されているのだろうが、それを使ったのは昭和5年ではないからさ。
吉田 そうか、それ以外に曜日欄の曜日を消す理由はやはり考えられないか……。
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
 “ 「聖女の如き高瀬露」の目次”へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 論じてこられなかったことの意味 | トップ | バターと光太郎と賢治 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事