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『昭和五年 短歌日記』は「昭和6年」用か

2024-02-10 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露













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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
『昭和五年 短歌日記』は「昭和6年」用か
鈴木 実は、この平成15年7月29日付『岩手日報』に〝関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見〟という新聞報道があったことを知ったのは、私がしばしばお邪魔している矢巾温泉の古書店『イーハトーブ本の森』の店主高橋征穂氏から聞いたからなんだ。他でもないこの新聞報道の際に「日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂さんが」と紹介されている高橋さんその人だ。
 そして高橋さんは、徳弥のその『昭和五年 短歌日記』を沼津のU氏に売ったということも教えてくれたのだが、私にとってそこはあまりにも遠くて行けそうもない。そこでまずは北上市の『日本現代詩歌文学館』に行ってみたというわけだ。
荒木 その結果、「関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記」と報道された同日記が、鈴木から見れば筆跡が確かに関徳弥のものだと判った。そして、新発見の日記の曜日欄が消されていたということも確認できた。が、それだけでは曜日欄が消された理由までは知ることなどできなかった。そこで、何はともあれその現物を見るしかないと思ったんだべ。
鈴木 うんその通り。こうなると沼津のU氏を直接訪ねるしかないと思って、高橋氏にお願いしてU氏の住所と電話番号を教えてもらった。直接U氏にお電話をした。U氏には高橋氏から紹介していただいたことを告げながら、直接お邪魔して徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見せていただきたいとお願いしたところ快諾していただいた。
◇U氏宅訪問
荒木 それでその訪問結果はどうだった?
鈴木 私は喜び勇んで、JRの切符を買い、宿を予約してその出発の日を首を長くして待っていた。するとその出発の前日、U氏から都合が悪くなったので明日は無理になったとご連絡を頂いた。
荒木 えっ、そうなんだ気の毒に。
鈴木 そこで私は、それでは明後日にお訪ねしますということで承諾を頂き、出発は予定通りの日にした。初日は、実は前々から一度訪れてみたいと思っていた身延町に行って久遠寺の賢治碑を見て、その後韮崎市に行って保阪嘉内のことを調べ回ればいいかと思ったからだ。
 するとその初日(平成25年7月8日)、久遠寺を見終えて身延線に乗って韮崎に向かっていたところへU氏から携帯に電話が入り、明日も仕事の都合で会えなくなったという連絡が入ったのでやむを得ず諦めた。まあその日は韮崎に泊まって、保阪嘉内に関連する場所を訪れたりして幾ばくかのことを知ることができはしたが、正直泣き泣き花巻に戻った。
吉田 何、またもやか。始めっから会うつもりなんかなかったのじゃないのか、U氏は。
鈴木 それは薄々感じた。そもそもこの「曜日の消去」のについては、日記の持ち主に会って日記の現物を見ればばかなりわかるはずだと私は思っていたから、先の古書店主高橋氏にはその経緯を訊いてみていなかったので、とりあえずはU氏訪問の顚末報告旁々高橋氏を訪ねて、あの新聞に載った日記の曜日が消されているのはなぜだったのでしょうかと訊いてみた。
吉田 その回答は?
鈴木 そのことは気付かなかったし、そのことが当時話題になった記憶もないということだった。
荒木 そこでしつこさがウリの鈴木のことだ、やはりその現物、徳弥の『昭和五年 短歌日記』を見るしかないと再度思ったんだべ。
鈴木 わかるか? そうなんだよな。しかし、年金暮らしの私がまたもや沼津まで行くのはお金もかかるので無理。そこでU氏に電話をして、その日記には例えば「元日」の曜日欄は消えているのか、もし消えていれば曜日は何と記載されているのか、せめてそこだけでも教えてもらえないでしょうかと懇願したところ、それではその旨を手紙で連絡して下されば調べてご返事をしますということだった。
吉田 その曜日がどう書いてあるかで、実はその日記が書かれた年が昭和何年であったかがわかると踏んだわけだな。
荒木 それでそれで、元日の曜日欄には何と書いてあったというのだ?
鈴木 ところが待っても待ってもその返事が来ないのさ。私もしつこいとは思ったが、どうしても諦めきれず二ヶ月程経ってから再度そのお願いの手紙を出した。しかしやはり梨の礫。
荒木 そうか、だからこの前もまたその沼津に今度は「大人の休日倶楽部パス」を使って行って来たというわけだ。
鈴木 年金暮らしの私の場合にはそうでもしないと無理。そして、今度は事前には連絡せずに直接U氏のお宅にお邪魔した(平成25年11月26日)。
吉田 どうせ約束してもドタキャンされたのでは意味がないからな。
鈴木 そうなんだ。すると、今度はU氏に会えた。会っただけで、この方はとてもいい方だと直感した。遠いところわざわざ訪ねて来て下さってと仰って、その日記を見せてくれるということで奥の方に一度入って行った。私は再度訪ねて来た甲斐があったと心の内で快哉を叫んだ。
 ところが戻ってきたU氏の返事は、ちょっと事情があって今は見せられないので夕方また連絡して欲しいというものだった。そこで私は宿を取って夕方を待って連絡した。
荒木 じれったいな、それで結局…
鈴木 結論を言えば、見ることができなかった。夕方電話をしたところ、本が沢山あってその日記が紛れていてどこにあるか今は不明なので探してみますから、また明日連絡をしてくださいということだった。するとその明くる日の昼前にやっと連絡が入り、探してみたのですがその日記は見つかりませんでしたというものだった。
荒木 なんだ、結局また無駄足だったのか。
鈴木 そうなんだ、一時のぬか喜びに過ぎなかった。
吉田 何かあるんだよ。その裏には深い事情が…。あるいはもしかすると、鈴木は既に要注意人物としてマークされているのかもしれんぞ。
鈴木 実はほぼそうかもしれない。割り切れなさを感じつつ、世界遺産になった富士山を眺めながら私はしょぼくれてそこを後にした。
荒木 ほにほに可哀想に。
鈴木 花巻に戻ってから、再び高橋征穂氏にその報告に行った。高橋氏は非常に訝っていた。「あの日記は○○○万円で売ったものだから、他の本と紛れるようなところに保管などしておくはずがない」、と。
 そこで私は次のように話した。『高橋さんには申し訳ございませんが、どうやら同日記の曜日欄が消されていたのは始めからであり、ついては逆に、同日記は昭和5年のものではないという可能性が高いと私は思っておりますが』と。すると高橋氏は、それはあり得ることだと首肯して下さった。
 だから今後は、
 徳弥の『昭和五年 短歌日記』は実は昭和5年に書かれたものではなく、他の年に徳弥がそれを使って書いた日記である可能性が極めて高いと判断し、次に進むしかない。
と覚悟した。
吉田 〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟の曜日欄の記載が明らかに人の手で消されていることは間違いないから、それが消されているという事実がまさにあの記述内容は昭和5年のものではないということの証左であり、当然の帰結だろう。
 しかしだ、確かに〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟の元日の曜日欄等がどうなっているかを知ることによってそれが何年に書かれたものであるかということは特定しやすくなるだろうが、このルートはたぶんその裏に深い事情があると思われるのでこれ以上もう踏み入ることはできんだろう。
 その代わり、調べ方によっては〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟と言われているその日記が書かれた年を絞り込むことだって可能かもしれないから、これからはこちらのルートで探ってみようじゃないか。何か急に勇気が湧いてきたぞ。
◇『昭和五年 短歌日記』は昭和6年に書かれた
鈴木 まず、〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は「昭和5年」用として発売された日記であることは間違いない。
荒木 ところが曜日欄の曜日が消されているということからは、徳弥はこの日記を「昭和5年」として使ったわけではなく、他の「年」用に使ったということ以外には考えられない。
吉田 それも、「十月六日」の場合などは消したということがありありと判る消し方であり、気付かれないように消そうとしたとは感じられない消し方であることは明白だから、別の企みがあるとも思えない。
荒木 それでは、
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は「昭和5年」以外の年に書かれた。
という結論でいいんでないべが。
鈴木 じゃあ次は、徳弥はこの日記を何年用として使ったのかを推理し、できればその年を特定することだ。
吉田 まずは、「日記」の性格上「昭和5年」より前に使われたということはあり得ない。一方で、昭和8年以後もあり得ない。賢治は昭和8年の10月にはもはや亡くなってしまっていたからだ。となれば、その可能性は昭和6年か同7年のいずれかでしかない。
 そこで次だ。インターネットで『万年カレンダー』を見てくれ。昭和6年と7年の10月4日~6日の曜日どうなってる?
鈴木 ちょっと待て、ちょっと待て、え~と、
 昭和6年の場合:10月4日(日)、10月5日(月)、10月6日(火)
 昭和7年の場合:10月4日(火)、10月5日(水)、10月6日(木)
だ。
 それから、露は昭和7年遠野の小笠原牧夫と結婚、昭和7年の10月の露は遠野在住、勤務先はもっと釜石よりの上郷村だ。となれば、昭和7年に上郷小學校勤務の露がウィークデイの10月4日~6日の間に花巻の関徳弥の家に2回もやって来るのは常識的に考えて容易なことではない。
 そうそう、荒木は当時の岩手軽便鉄道の時刻表などを調べてくれると言っていたよな。そっちの方はどうだ?
荒木 もちろんだ。ただしそれは昭和5年の「岩手軽便鉄道の
時刻表」(『汽車時間表 第六巻第十號』(日本旅行協會)230pより)によるものだがそれほどの差はなかろう。その時刻表によれば、
・遠野→花巻の本数は一日6本で、遠野始発は 5:30、同終発は 17:55
・花巻→遠野の本数も 同 6本で、花巻始発は 5:40、同終発は 17:27
だ。そして、花巻~遠野間の所要時間は約2時間50分ほど。なお、当時露は上郷小學校に勤めていたということであれば上郷駅から乗ることとなり、
・花巻行き 上郷駅発 10:10、12:35、15:45、17:05
の4本、花巻までの所要時間は約3時間10分ほどだ。
吉田 これで、昭和7年の線はほぼ消えたな。結婚したばかりの露が、平日勤務の上郷小學校から一日たった4本しかなかった軽便鉄道に乗って約3時間ちょっとをかけて花巻にやって来て、新聞報道によれば、10月4日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。云々」ということだから、4日は夜に徳弥の家にやって来たことになる。
荒木 この時刻表によれば、もし昭和7年10月4日(火)に露が遠野からやって来たとなれば、仕事を早退けして、遅くとも上郷駅発17:05の汽車に乗って来た。そうすると露はその日は向小路の実家に泊まるしかない。花巻の終発が17:27だからもう汽車には乗れないからだ。当然、翌日5日(水)も…
鈴木 あっ…まずい。しくじった。大事なことを見落としていた。吉田の言うとおり昭和7年の線は消えたな。
荒木 何だよ、急に人の話の腰を折って。
鈴木 ごめん悪い悪い。でもほらここを見ろよ、同日記の「中に昭和六年度版の「年刊歌集」に収録されている関の短歌が一首つづられて」と新聞記事にあるじゃないか。
吉田 そっかそっか、すっかり無駄骨を折ってしまったな。言われてみれば、『昭和六年度版の「年刊歌集」』に収録されている関の短歌を、『昭和七年 短歌日記』に関が再びまた詠むということは常識的に考えれば普通はあり得ないからな。
荒木 なあるほどな。そうすると消去法によってこの日記は昭和6年に使われたものとなりそうだし、しかも『昭和六年度版の「年刊歌集」』にその短歌が載っているならばなおさら、
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』は、実は昭和6年に使われた。それゆえ、徳弥は曜日を消して使っていた。
と判断してまず間違いない、でいいべ。
吉田 言い換えれば、
〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟については、
・10月4日の記述内容は昭和6年10月4日の徳弥の日記、
・10月6日のそれは昭和6年10月6日の徳弥の日記である。
として扱った方が遙かに妥当だということだ。
鈴木 さて、我々が考察した限りにおいては〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は実は「昭和6年」用として徳弥が使ったものであろうという結論に達したので、こうなれば次の「昭和6年」の場合の検証用資料として再考せねばならないので、検証結果がどうなるかはその時まで保留しておきたい。
 ただしその可能性は少ないことがわかったのだが、この日記が仮に「昭和5年」の日記だとした場合にどうなるかを念のため調べておきたい。つまり、新聞報道された〝徳弥の『昭和五年短歌日記』〟の「10月4日と6日」に書かれている内容が<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となるかを調べてみたい。
 ではまずその日記の記述内容の確認だ。
・10月4日:夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也。
・10月6日:高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく。
となっている。ではこの記述内容をどのように解釈し、どう判断するかだ。
荒木 まず10月4日分については、4日の夜徳弥の家に、花巻高等女学校で同級生であったナヲ(徳弥の妻)を訪ねて露がやって来たが、その際に徳弥の義母ヤス(ナヲの母、賢治の叔母)がやって来て怒った。それは露と賢治の結婚話についてであった。そしてその様子を見ていた徳弥は「女といふのははかなきもの也」と感じた、という解釈でどうだ。
吉田 そんなところだろうな。ただ問題はそのことによって〈仮説:高瀬露は聖女だった〉が崩れるかだが、それはなかろう。この記述内容だけで露が悪女にされる理由はないからだ。
荒木 とはいえ、ヤスが怒ったというんだろう。
吉田 おそらくそれは事実だろうが、賢治には何ら非はなくて露一人だけに非があるから怒った、ということまではこの日記の記述内容が保証しているわけではない。単に「露と賢治の結婚話」について怒ったということでしかない。こんな中身のはっきりしていない内容では検証などできない。
鈴木 では、「女といふははかなきもの也」についてはどうだ。
吉田 これだけでは徳弥が誰に対してそう感じたのかは確定できないだろう。それは露かもしれないし、ヤスかもしれないし、ナヲだったのかもしれない、はたまた女性一般かもしれない。したがってこんな曖昧なものであればやはり検証以前。
鈴木 となれば、10月4日の記述内容は<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例とはならないということでいいな。
荒木 一方の10月6日については、内容的にはっきりしているから解釈で悩むことはない。こちらの方は、露が翌々日の6日また徳弥の家にやって来て、賢治から貰ったという書籍を返してほしいとナヲに頼んで置いて帰って行ったという解釈以外にないだろう。
吉田 前々日に結婚話があったということだから、露はけじめを着けるために以前に賢治から貰っていた本を返したとも考えられるので、露のそうした誠実ともとれる行為は〈仮説:高瀬露は聖女だった〉を裏付けこそすれ、その反例とならないこともまた明らか。
荒木 あっそっか、この頃既に露は小笠原牧夫との結婚を決めていたのか。
吉田 それはあり得るが、露と牧夫とが結婚したのは昭和7年の4月のはずだから、ちょっとな。時期的なことを考えれば昭和5年の時点でそんな先のことを予見して本を返したということはなかろう。
荒木 わがった、その点から言っても逆にこの〝徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟は実は「昭和6年」に書かれたものだったという可能性が大であると言えるのだ。
吉田 結局、〝関徳弥の『昭和五年 短歌日記』〟が平成15年に新たに見つかったからといって<仮説:高瀬露は聖女だった>を棄却する必要はないということだ。
鈴木 なおもちろん、「昭和5年」に関してはこの<仮説>の反例となりそうな証言や資料は他に知られていないから、結局、
「昭和5年」の場合も<仮説:高瀬露は聖女だった>は検証に耐えた。
ということだ。
荒木 やった! 今回もこの<仮説>を棄却する必要はないということになる。いやあ嬉しいな。
 鈴木は当初「昭和5年」は難題だと言っていたから、もしかするとこの<仮説>の反例が出て来て、今まで検証に耐えてきたこの<仮説>を棄却せねばならんかもしれぬとちょっと不安があった。しかしその結果は、少なくとも「昭和6年~昭和7年」を除いてはこの<仮説>は成り立つということだ。この調子だともしかすると、この<仮説>は最後まで検証に耐え続けてくれるかもしれん。
鈴木 ご免ご免、私が「難題」だと言ったのは検証が難題だというのではなくて、『短歌日記』の「曜日欄の曜日が消されている」というおかしなことがあるという意味でのことだったのだ、言い方がまずかったな…。
吉田 でもよかったじゃないか、荒木。結果オーライだ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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