みちのくの山野草

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「逃避行」をしていた賢治

2022-06-20 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
魑魅魍魎の世界
 ――「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」――

 ところで、昭和3年6月の賢治の上京は実は「東京への逃避行」だったという見方もあるという。それは、佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していることなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(投稿者略)…
 東京に着いてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
  「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気に見えるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた 
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(投稿者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
             〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~〉
という見方である。
 一方、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 (昭和2年の)夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、…(投稿者略)…その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起らない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという<*1>。
 そうすると、先の佐藤氏の引用文によれば、伊藤七雄は当時労農党員であったということでもあるから、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうなので、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。
 それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(投稿者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
              〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~〉
からも裏付けられるだろう。
 そういえばこの昭和3年とは、3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月10日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという年だ。となれば、先に述べたような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃避したということは十分にあり得る。さらには、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、『(賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが』と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からはそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたことはほぼ疑いようがない(後ほど論ずる、「論じてこられなかった理由と意味」を参照されたい)から、なおさら「逃避行」であったと言えそうだ。

 一方で、このときの上京(いわば「大島行」)の主たる「目的」は、伊藤七雄の大島農芸学校設立への助言あるいは伊藤ちゑとの見合いのためなどと巷間云われているが、もしそうであったとするならば、なぜ彼は「目的」をなし終えたならば農繁期であった花巻に直ぐに戻らなかったのだろうか。この時期、地元花巻では「猫の手も借りたい」といわれる田植え等の農繁期だから、農聖とも言われている賢治であるならばそれが気掛かりなので「大島行」を終えたならば即帰花(花巻に戻る)したと思いきやそうはせずに、その後もしばらく滞京し浮世絵鑑賞に、そして連日のように観劇に出かけているからである(ちなみに、賢治が後程澤里武治に宛てた書簡(243)の中で「……六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず……」と書いてるから、その様な観劇をしたということをこれはを傍証している)。のみならず、なぜ「MEMO FLORA手帳」に手間暇かけてのスケッチ等をしていたのだろうか。土岐 泰氏の論文「賢治の『MEMO FLORA手帳』解析」〈『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』(宮城一男編集、弘前・宮沢賢治研究会)所収〉によれば、賢治は帝国図書館に通い、総ページ数110頁の同手帳のうちの39頁分に、『BRITISHU FLORAL DECORATION』から原文抜粋筆写及び写真のスケッチをしていたという。賢治はなぜ「目的」をなし終えたというのに、火急のこととは思えない「MEMO FLORA手帳」へのスケッチ等をしていたのだろうか。

 そして、帰花した後の賢治は、農繁期に半月以上もの間花巻を留守にしてしまったのだから、そのことを気に掛けながら、早速周辺の農家の水稲の生育状況等を大車輪で見廻っていたはずだ。ところが、ところが前回触れたように、賢治は花巻に戻ってからも「しばらくぼんやり」と無為に過ごしていたと言える。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に半月以上もの間上京していて花巻を留守にしていたから、結局その農繁期に稲作指導等をまったくしない計約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この点からいっても、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに頷ける。

 どうやら、昭和3年の「大島行」は逃避行であったということを否定出来そうにない。

<*1:投稿者註> 名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長には泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)219p~>
ということも述べている。

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