みちのくの山野草

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3857 昭和3年4月10日の新聞報道

2014-04-16 09:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
昭和3年4月10日付『岩手日報』夕刊第一面
 『日本の歴史 24』(中央公論社)によれば、昭和3年に起こったいわゆる「三・一五事件」について 
 三年三月十五日払暁、警察は全国三府一道二十県にわたって、労働運動・農民団体・労農党などの事務所やブラック・リスト上の人物の寝込みを急襲した。
            <『日本の歴史 24 ファシズムへの道』(大内力著、中央公論社)126pより>
ということであるが、その新聞報道は約一ヶ月後の4月10日になって初めて解禁された。ちなみにその時の『岩手日報』の報道は以下のようなものであった。
【昭和3年4月10日『岩手日報』夕刊第一面(抜粋)】

 そして、この4月10日には労農党の解散も命じられたということも同紙面に報道されているし、この解散命令を受けて次のような報道もなされていた。
【昭和3年4月10日『岩手日報』夕刊第二面】
    地方無産者團体 協議會の組織 前勞農黨支部で
 勞働農民黨の解散により本縣聯合會では十日午後一時半から協議會を開き善後策を協議の結果無産者團体協議會を組織する事になり二十五日公會堂で發會式を擧げる事になり直ちに聯合會横田執行委員長、小舘書記長、一條、泉兩顧問辯護士の名を以て左の如き檄を各支部に發送した
 もちろん
  横田執行委員長=横田忠夫
  小舘書記長=小舘長右衛門
  泉顧問辯護士=泉國三郎
に他ならないだろう。
 さて先に考察したように、昭和3年3月頃に賢治は羅須地人協会の活動に終止符を打っていたようだが、翌4月のこの新聞報道“某重大事件解禁さる”を知った賢治の心境は如何ばかりであったであろうか。

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