みちのくの山野草

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小作人の肩を持つようになっていった妹尾

2018-03-01 14:00:00 | 法華経と賢治
《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 理崎氏は言う、
 しかし、全体的には小作人の主張が正しい、と思えるケースが多かった。
〈階級運動は我らの取らないところだが、小作人の生活向上を図って行く平等に導くことは先覚者の努めである。いたずらに強調して現状維持をはかるよりも、それを進展させるべきだ。地主階級は早晩滅ぶべきものと思う〉
             〈66p~〉
と妹尾は考えていたと。どうやら、調停役だった妹尾だが、次第に小作人側にシフトしていったようだ。
 さらに、同氏は続けている。
 現場の最前線にいた妹尾は、切迫した農村を見て平常心ではいられなかった。…(投稿者略)…争議は地主にとっては収入の多寡の問題だが、小作人にとっては死活問題であった。依頼された講演は地主や資本家の御用的立場でしかない、と覚らざるを得なくなる。そのため、地主に招聘されたにも関わらず、小作人の肩を持つ発言が増えていった。
             〈67p〉
のだと。
 ここで私がはっとしたことは、「争議は地主にとっては収入の多寡の問題だが、小作人にとっては死活問題であった」ということである、「争議」という事実は一つしかない訳だが、立場に違いによってそれがまったく懸け離れた事態をもたらすということにだ。そして、妹尾は次第に小作人側の肩を持つようになっていったという。そこに、妹尾なる人物の心根を知った。

 ではその頃の賢治は小作人に対してどのような認識を当時もっていたのだろうか。昭和6年といえば賢治は東北砕石工場の嘱託となって、タンカル等の販売宣伝のために粉骨砕身していたとは言えるが、このタンカルを小作人が必要としていたということはあり得ない(小作人が金肥を買う余裕などもともとなかったし、まして窒素・燐酸・加里の三要素でもないタンカルをわざわざ買おうとする小作人がいるはずもないことはほぼ自明)から、現実的に、賢治の目は小作人には向いていなかったとならざるを得ない。また、昭和6年当時の賢治はかつてのような賢治でなくなっていたことは森荘已池の「昭和六年七月七日の日記」(『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房)や『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)所収)の賢治に関する記述が事実だとすれば、それを具体的に教えてくれている。そしてその一方で、『雨ニモマケズ手帳』に法華経に関わること(とりわけ何度も曼荼羅を書いていること)をしばしば書き記していることを併せて考えてみれば、当時の賢治は自分自身の中でかなり分裂していたと言えないこともない。

 この当時の賢治が何をして何をしていなかったのかを、妹尾のそれらとと比べてみればその差はあまりにも大きい。「どうやら私は大事なことを見落としていたのではなかろかという不安に襲われ始めた」と前回呟いたが、それはこの二人の熱心な法華経信者のベクトルの向きの決定的な違いを見落としていたからのようだ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。
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