みちのくの山野草

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高瀬露の評判を教わる(3/5)

2019-03-05 20:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《白露草》(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

 小笠原(高瀬)露が遠野に住んでいた時、露が住んでいた家と近所だったので露のことをよく知っている遠野出身のGさんと、本日(平成31年3月5日)お会いできた。
 その方は、
  
露さんは高貴な方で、品が良く、いつもニコニコしていた。

ということなどを教えて下さった。そして、露に関しての好ましくない噂など聞いたことがない、ということもである。
 やはり、上田哲<*1>や佐藤誠輔氏が教えてくれているとおりの人だったのだ、と私は改めて確信した。

<*1:註> 上田哲の論文〝「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露〟には、高瀬露に関して以下にようなことなどが述べられている。
 夫となった小笠原牧夫は、一八九三年(明治二十六年九月九日)生まれで露より八歳年上の三十九歳。露も三十一歳。今更、逃げて帰るわけにもいかず彼女は悩んだという。幸い牧夫はやさしい性格で外語学校で英語を学んだだけあってある程度の理解をもっていたようである。それで折々教会へ行くことも出来たが、周囲の圧力の方が強かった。「神社へ嫁に来たのにヤソなどに行く。」と彼女への批難や妨害のいやがらせに耐えながら教会との連絡は保っていたが、次第に教会への足は遠退かざるを得ない状況に追いつめられていった。しかし彼女はキリスト教の信仰を棄てたのではない。それであるから教会を遠退いていることに対して負い目を抱きながら生活していた。そして一九四五年敗戦を迎えた年の十二月十九日夫の牧夫が死去した。夫の死で彼女も次第に神社との縁が薄くなっていった。教会生活への復帰を考えはじめていたところたまたま一九四九年スイス人の宣教師が、遠野町の旧家で醸造業を営んでいる「村錬」の広間を借り教会の建物が出来るまでそこを伝導所としてお祈りの集まりやキリスト教の勉強会をしているということを聞き、バプテスト教会の方は長く疎遠になっていて一寸行きずらい気もしていたのでカトリックの集まりとは知らず(スイスは新教の国という朧げな知識もあったので)、また旧家の「村錬」さんが部屋を貸している位だから確かな人々の集まりだと考えて出席したのである。「村錬」は屋号で村上がその家の姓であった。この家の娘佑子がカトリックに入信していたことからここが遠野での初めての伝導所となったのである。当時盛岡市四ツ家町のカトリック教会をベースに遠野のほかにも県内各地へ教会を開設する準備のため巡回布教が行われていた。露の婚家先の小笠原家の一族も旧南部藩の上級の士族の末裔と伝えられており小さな田舎町遠野では上流階級に属していた。村上佑子は露より二十歳近く若くこれまで互に直接な交流はなかったが、四面楚歌的状況の中で生活していた露は、暖かく迎えてくれた佑子の旧家のお嬢さんらしいおっとりして純な人柄に惹かれ次第に年齢を超えて親しい交流をもつようになった。ところで出席して旧教であることを知って戸惑ったが、村上佑子がやさしく何かと世話してくれ、「村錬さん」で開かれている集りなので途中で帰るわけにもいかず話しを聞いているうちに今まで知らなかったキリスト教の知識を得ていくらか旧教に興味を持った。そしてバプティスト教会ではその時、その時に神父が選んだテーマによる聖書の講義はあったが、体系的な教理の勉強はなかった。ところがカトリックでは『公教要理』によって、宗教は何か、神とは、神の存在の哲学的証明、三位一体、キリストとはなどを、それぞれの人にあわせて個人毎に教えてくれるというので一応やって見ようと思った。それにこの教会には村上佑子のような人がいてくれるのが心強かった。そうして納得のいくまで『公教要理』の学習をして一九五一年(昭和26)三月二十五日、昨年建ったばかりの教会で洗礼を受けた。…(略)…
 彼女との交流は、晩年近くになってからであるが、露の二人の娘と小学生時代からの幼友達で比較的古くから露を知っていた菊池映一という人がいる。遠野在住の歌人であるが尾上紫舟賞受賞者で日本歌人クラブの理事でもある。…(略)…露が賢治を度々訪問していることは、彼から聞いていた。それで露と賢治についていろいろと聞いてみた。彼の証言を次に紹介する。

 露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏までいろいろ教えていただきました。その後、先生のお仕事の妨げになってはと遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表れているのが感じられた。…(略)…。

     …(略)…
 ところでそれから間もなく小笠原露に逢ったのです。月日は憶えていませんが盛岡市四ツ家町のカトリック教会の日曜日の午前九時からはじまる第二ミサの席である。昨年佐藤佐太郎歓迎歌会で逢った中年の婦人に似た人を見付けた。当時わたくしは戦後岩手の宣教を委託されたスイスのベトレヘム外国宣教会の伝道士(カテキスト)兼日本語教師をしていた。小笠原露ではないかと思ったが確信はなかった。…(略)…その婦人はベールをかけていたので信者であることは判っていたが、帰りがけに声をかけたところ遠野教会の信者の小笠原露であることと長女が盛岡の志家町にあるベトレヘム外国宣教会で調理の仕事を担当している同じ宣教会の日本人スタッフとして同僚であることもわかった。小笠原露の印象は、古いキリスト者によくある控えめでなにごとにも自分を抑制しようとするタイプと感じられた。
 …(略)…賢治と高瀬露についてのことも調べて見ようと関登久也の『宮沢賢治素描』、高橋慶吾の「賢治先生」(『イーハトーヴォ』創刊号所収)などを読んでびっくりした。森荘已池の『宮沢賢治と三人の女性』は、中々手に入らず少し遅れて読んだ。…(略)…高瀬露の場合は、敬虔ということば通りの人柄に思われた。そういう彼女を知っているわたしには、流布している高瀬露の話は信じられなかった。…(略)…次に遠野に行き調べたがカトリック教会関係は、彼女が健在であるので調査のようなかたちはとれないから世間話の中でそれとなく彼女のことを聞いたところ「熱心な信者さんで親切な方」という異口同音の評価だった。次にわたしが『岩手短歌』の発行人、県歌人クラブの役員だったのと彼女も短歌を作っているので短歌にかこつけて土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった。中には彼女の教え子の親もいた。ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓・沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。
 最後に小笠原露のカトリック入信の導き手となった村上佑子は、小笠原露を高く評価し模範的信者で、家庭の子供たちに対する宗教教育も適切であり、母親の感化で娘の一人はゲオルグの聖フランシスコ会の修道女になっている、と語っている。村上佑子は露の信仰生活についていろいろ具体的な例をあげて彼女を奨揚しているが省略する。
             <『七尾論叢 第11号』(1996年12月 吉田信一編集、七尾短期大学発行)より>

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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