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〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉
先の秋田の丸山助吉に引き続いて、今回も秋田であり、沼倉 精一という人から寄せられた次のような追悼を転載させてもらう。
秋田 沼倉 精一
松田先生忽然として急逝さる悲痛何ぞ堪えん。先生重態の報に接して私は父と共に憂愁な思ひに胸をいため乍ら心から先生の全快を祈つたのでした。しかしそれから間もなく接した再度の報は悲しくも先生逝去の訃報でありました。噫 巨星遂に地に落つ。今は一切の望も断たれました。それは独り私自身の悲しみではなく、日本農村の大きな損失であり悲しみでもあります。私の先生を知りましたのは昭和十四年、北支の山西省で従軍中でありました。不躾なこととは思ひ乍ら敬慕のあまり書面を以て御指導を願つたのでありました。それから間もなく届いたのは熱誠溢るる先生からの激励のお便りであり、その文中には、私の父と弟が訪ねて行き一夜を共にして語られたと書き添へてありました。
一切をなげうち魂の御盾として戰の庭に立ち乍ら土に親しみ、土に生きてきた私にとつて忘れることの出来ないのは香はしい大地の臭ひであり、土に通して皇國に捧げる大きな思慕でありました。先生の著「土に叫ぶ」は陣中の余暇幾度読んだかわかりません。そして偶然にも先生から御指導をうくる機を得た私は新しき日本農村の出発を信じて心樂しく御奉公に專念したのであります。やがて在支二年有余にして祖國の土を踏んだ私は昭和十五年の夏、先生を私の家までお越しいたゞくの機にめぐまれましてその夜は深更まで諄々と御教へをいただのであります。しかしその後、私は残念にも再び先生に御會いたすことが出来ず遂に今日にいたつたのであります。此のことはまことに残念であり、亡き先生に対して心からお詫び申上げねばならぬと思って居ります。
嗚呼、雪深き東北の地に新しき皇國農村の建設の急務をさけばれた先覚の士、今は亡いのであります。私は三十有五もの先生の精神を守り、父と共に農道につとめる覚悟であります。
茲に先生を敬慕のあまり急逝を悼み恭しく哀悼の誠を捧ぐる次第であります.先生の霊よ希くは安らかに瞑せられよ。
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)42p〉松田先生忽然として急逝さる悲痛何ぞ堪えん。先生重態の報に接して私は父と共に憂愁な思ひに胸をいため乍ら心から先生の全快を祈つたのでした。しかしそれから間もなく接した再度の報は悲しくも先生逝去の訃報でありました。噫 巨星遂に地に落つ。今は一切の望も断たれました。それは独り私自身の悲しみではなく、日本農村の大きな損失であり悲しみでもあります。私の先生を知りましたのは昭和十四年、北支の山西省で従軍中でありました。不躾なこととは思ひ乍ら敬慕のあまり書面を以て御指導を願つたのでありました。それから間もなく届いたのは熱誠溢るる先生からの激励のお便りであり、その文中には、私の父と弟が訪ねて行き一夜を共にして語られたと書き添へてありました。
一切をなげうち魂の御盾として戰の庭に立ち乍ら土に親しみ、土に生きてきた私にとつて忘れることの出来ないのは香はしい大地の臭ひであり、土に通して皇國に捧げる大きな思慕でありました。先生の著「土に叫ぶ」は陣中の余暇幾度読んだかわかりません。そして偶然にも先生から御指導をうくる機を得た私は新しき日本農村の出発を信じて心樂しく御奉公に專念したのであります。やがて在支二年有余にして祖國の土を踏んだ私は昭和十五年の夏、先生を私の家までお越しいたゞくの機にめぐまれましてその夜は深更まで諄々と御教へをいただのであります。しかしその後、私は残念にも再び先生に御會いたすことが出来ず遂に今日にいたつたのであります。此のことはまことに残念であり、亡き先生に対して心からお詫び申上げねばならぬと思って居ります。
嗚呼、雪深き東北の地に新しき皇國農村の建設の急務をさけばれた先覚の士、今は亡いのであります。私は三十有五もの先生の精神を守り、父と共に農道につとめる覚悟であります。
茲に先生を敬慕のあまり急逝を悼み恭しく哀悼の誠を捧ぐる次第であります.先生の霊よ希くは安らかに瞑せられよ。
この追悼を読んで、やはり当時「土に叫ぶ」が大ベストセラーであったことを改めて了解した。北支で従軍していた沼倉が「「土に叫ぶ」は陣中の余暇幾度読んだかわかりません」と言っているくらいだからだ。一方で、甚次郎の気さくで誠実な人柄を窺うことができた。「先生を私の家までお越しいただくの機を恵まれましてその夜は深更まで諄々と御教へをいただのであります」ということがあったというからだ。
沼倉は、「私の先生を知りましたのは昭和十四年、北支の山西省で従軍中でありました」と言っているし、先程の「「土に叫ぶ」は陣中の余暇幾度読んだかわかりません」から、おそらく彼は、中国山西省で従軍していた際に「土に叫ぶ」を読んで甚く感銘したに違いない。その感銘が「敬慕のあまり書面を以て御指導を願つたのでありました」とさせたのであろう。
さて、誰かが甚次郎のことを「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」とくさしていたが、これがその根拠の一例だとは言えなかろう。はたまた、「嗚呼、雪深き東北の地に新しき皇國農村の建設の急務をさけばれた先覚の士」と甚次郎のこと悼んだからといって、甚次郎は「思い上がり」であったとその「誰かが」誹ることはできなかろう。
私は逆に、この『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)を読めば読むほど、調べれば調べるほど、当時甚次郎が如何に多くの若者から慕われ、尊敬されていたかということをますます納得させられる。
別の誰かも、
「農村の或者がおもいあがって、たまたま農民道場めいたことをはじめると、世人がそれをはやしたててすぐ有名になってしまう。地元の村人は一向関心をもたず、迷惑にさえおもっているうちに、若年の道場主がどんどん名高くなって、恰も救世主のような面をして講演をして歩くようになる。ところが、かかる級の人物は世間に掃くほどおっても、農村におる者が特に目につく、鳥なき里の蝙蝠であるのと、本当に偉い農村人物を見出す目を世人が持っておらぬからである。国の宝となる農民は黙々として働き、村と国を治めてめったに声を大きくしない。三十そこそこの若年者が、生意気に農民道場主とはいったい何事ぞやと、罵りたいことが往々にしてある。
と甚次郎のことを痛罵していたということだが、実は、このような言は「天唾」だったとなることはないのだろうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/book_mov.gif)
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《発売予告》 来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))
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を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について― 森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
の三部作から成る。Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
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