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〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉
さて今度は、岩手→青森と来たから、秋田である。例えば、丸山助吉は「捧 松田君の霊に」と題して次のような「追悼」を寄せていた。
捧 松田君之霊に
秋田 丸山助吉
み民みな大御田のわさたたふまて
君がいのちはつきさらめやも
私が松田氏を知つたのは昭和七年で、その頃自分は職務上の事で始終氏の父君と交渉があつて出入りして居つたのである。氏はある時自分に宮澤賢治先生を崇拝して居る事などから先生は、「由来日本の農業政策は実質的に見て、小作農を基調とする仕込みで、又この機構は今后と雖革変することは容易でない。随て我が國の農民は須く小作農に依つて物心両面に亘り、自身如何に豊かに生き抜けるかを思出す事だ」と國本政策に副ふ農民の態度を暗示されたとて沁みじみ語られた事がある。その時と前后して氏は既に地主育ちを一擲して、敢然何物にも依存せざる一個の小作農民として、□□或は青年団員との共同作業により、更には最上共働村塾開設による生活体としての小作農経営によるなど、言葉なき家畜など励まし、声なき草本と語り、地下千尺に鍬を打ち下して小作農會の建設に血みどろの苦斗された姿は自分の日夕親しく見聞した處である。この様に将来幾多苦難の問題の予想せらるゝ事業で而も一見卑賤に近い小作農体制の確立によつて農道精神の昂揚の可能を確信し挺身された。その牢固たる信念!世には老農、精農、篤農、聖農等々と賞めらるる先賢並現存の諸名士の幾多ある中に、松田氏のかうした行き方は、全く他の追従を許さぬ、即ち最低にして最高の道を行く崇高にして而も高遠なる理想の実践に對して全生命を打ち込んだ處に、自分はその特異性を認めるのである。又氏は之が前駆事業或は之と併行して世の一切の毀誉褒貶に耳を假さず、身を削るの苦行を農村文化確立運動に捧げられたのである。嘗て氏は「土に叫ぶ」を脱稿し、校正済みになつた時、わざわざ草堂に来られて顔を輝かせて語られた時ほど芯底からのうれしさを見たことがない。その姿が髣髴として今に消しやらぬのである。
噫 土の精 松田甚次郎君は生涯常に確信に満ちて三十五歳を一期として新庄に不滅の土の精に還られたのである。希庶同志各位よ決戰の意氣を以て迸る農魂を奉じ其の遺志を展顕せられん事を
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)33p〉秋田 丸山助吉
み民みな大御田のわさたたふまて
君がいのちはつきさらめやも
私が松田氏を知つたのは昭和七年で、その頃自分は職務上の事で始終氏の父君と交渉があつて出入りして居つたのである。氏はある時自分に宮澤賢治先生を崇拝して居る事などから先生は、「由来日本の農業政策は実質的に見て、小作農を基調とする仕込みで、又この機構は今后と雖革変することは容易でない。随て我が國の農民は須く小作農に依つて物心両面に亘り、自身如何に豊かに生き抜けるかを思出す事だ」と國本政策に副ふ農民の態度を暗示されたとて沁みじみ語られた事がある。その時と前后して氏は既に地主育ちを一擲して、敢然何物にも依存せざる一個の小作農民として、□□或は青年団員との共同作業により、更には最上共働村塾開設による生活体としての小作農経営によるなど、言葉なき家畜など励まし、声なき草本と語り、地下千尺に鍬を打ち下して小作農會の建設に血みどろの苦斗された姿は自分の日夕親しく見聞した處である。この様に将来幾多苦難の問題の予想せらるゝ事業で而も一見卑賤に近い小作農体制の確立によつて農道精神の昂揚の可能を確信し挺身された。その牢固たる信念!世には老農、精農、篤農、聖農等々と賞めらるる先賢並現存の諸名士の幾多ある中に、松田氏のかうした行き方は、全く他の追従を許さぬ、即ち最低にして最高の道を行く崇高にして而も高遠なる理想の実践に對して全生命を打ち込んだ處に、自分はその特異性を認めるのである。又氏は之が前駆事業或は之と併行して世の一切の毀誉褒貶に耳を假さず、身を削るの苦行を農村文化確立運動に捧げられたのである。嘗て氏は「土に叫ぶ」を脱稿し、校正済みになつた時、わざわざ草堂に来られて顔を輝かせて語られた時ほど芯底からのうれしさを見たことがない。その姿が髣髴として今に消しやらぬのである。
噫 土の精 松田甚次郎君は生涯常に確信に満ちて三十五歳を一期として新庄に不滅の土の精に還られたのである。希庶同志各位よ決戰の意氣を以て迸る農魂を奉じ其の遺志を展顕せられん事を
この追悼からは、丸山は当時秋田在住ではなく、新庄の近くで仕事をしていたようだから、甚次郎が秋田に出掛けて行ってどのような指導をしたのかを知ることはできないが、当時の甚次郎の農村文化確立運動への挺身振りがありありと伝わってくる。しかも、甚次郎は小作農という立場に立って、まさに丸山の言うとおり「全生命を打ち込んだ」と言えそうだ。あの時賢治から、「小作人たれ、農村劇をやれ」と強く「訓へ」られたということだが、その教え通りに甚次郎は生きたのだと。そこで私はそろそろ遠慮しないではっきり言おう。
賢治も甚次郎も立場としてはほぼ同じような立場に居りながら、「小作人たれ」と強く「訓へ」た本人はそうはならずに、「訓へ」られた甚次郎はそうなって、そうあり続けた。ここに二人の間には決定的な違いがあるし、自ずから、両者のそれぞれの評価の仕方も違ってくる。
と。もちろん追悼だから、「世には老農、精農、篤農、聖農等々と賞めらるる先賢並現存の諸名士の幾多ある中に、松田氏のかうした行き方は、全く他の追従を許さぬ」という賞賛を額面通りに受け取ることはできないかもしれないが、甚次郎は少なくともこのように言われるほどの人物だった、という評価はできる。それだけでも、甚次郎の素晴らしさを私は十分に察知できた。
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《発売予告》 来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))
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を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について― 森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
の三部作から成る。Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
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