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賢治と中舘武左衛門

2024-02-13 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露





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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 賢治と中舘武左衛門
鈴木 いや、実はまだ一つ残ってるんだ。
荒木 ええっ、そうなんだ。じゃあもう一踏ん張りしてみっか。
鈴木 ではその最後だが、それは以前、荒木が『そこに露の名が出ているぞ』と教えてくれた『年表作家読本 宮沢賢治』に載っていることに関してだ。
荒木 あっ、そういえばそんなことがあったな。
鈴木 念のため、当該個所をもう一度見てみよう。昭和7年6月の出来事の一つとして、このようなことがそこには述べられている。
 二二日 中舘武左衛門(盛岡中学の先輩で、自称「行者」)宛返書。賢治の病気の原因が、父母に背いたことや女性との関係にあるというような内容の手紙がきたらしい。「大宗教」の教祖、中舘に対して、言葉は丁寧だが厳然たる調子で反発している。
<『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)    
197pより>
荒木 そうそう思い出した。ここには露の名は出てこないが、その頁の下段のところに註釈があってそこに露の名が出ていたはずだ。どれどれ、やはり
 一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、わざわざ反論しているのは、妹の死・父母への反抗・高瀬との関係、それぞれが、賢治の心の傷だったからかも知れない。
<『年表作家読本 宮沢賢治』197pより>
となっている。
吉田 なお、賢治は『昭和二年日記』の断片の1月7日(金)分に、
中館((ママ))武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
<『校本全集第十二巻(上)』(筑摩書房)409pより>
と書いていて、中舘は正月松の内に下根子桜の賢治の許を訪れるような人物でもあった。
鈴木 ところがこの中舘宛の「返書」、正確には「返書の下書」なのだが、これが全く賢治らしからぬものなんだな。
荒木 えっ、賢治らしからぬとな。
鈴木 ちなみにそれは、昭和7年6月22日付中舘宛書簡下書〔422a〕のことであり、
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
 次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなどの俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。  敬具
<『新校本全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)407p~より>
というものだ。
吉田 最初は「御親切なる御手紙を賜り」と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと、吃驚仰天「呵々。妄言多謝」という皮肉たっぷりの言葉で賢治は締めくくっている。
荒木 いくら賢治とはいえども、盛岡中学の先輩に対して「この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝」と言うのもな。俺が今まで抱いていた賢治のイメージとは程遠い。
鈴木 ところが米田利昭はこの「書簡下書」について、「まじめに対応し、真実を吐露した手紙である」とか、「こんな相手にではあってもわるびれずに真実を告げている」(『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)271pより)と…
荒木 えっ、いくらなんでもそれはないべ。ちょっと良心的過ぎるよその見方は。
吉田 そうだよな。仮に賢治を振り子に例えてみれば、〔聖女のさましてちかづけるもの〕で極端にまで振れ、そして〔雨ニモマケズ〕でその対極に振れ、またこの書簡下書〔422a〕では元の極に戻ったような振れ方をしているということであり、賢治って感情の起伏がかなり激しかったという見方の方が妥当だろう。
鈴木 そうそう、そのことについては菊池忠二氏も、
 これらの回想の中で、私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしていあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36pより>
と述べている。
荒木 どうやら、かつての俺の抱いていた賢治のイメージとは正反対だが、これが本当の賢治の姿だったとそろそろ受け容れるべきだということかもしれんな。 
******************************************************* 以上 *********************************************************
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*****************************************************《上田哲の論文掲載の経緯等》********************************************
 『宮澤賢治と高瀬露』は上田哲との共著であり、次の二部構成になっている。
   Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―       上田 哲
   Ⅱ  聖女の如き高瀬露                       鈴木 守
 そしてこの共著の最初の頁を、 
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について】

としたように、不思議なことに、上田哲の上掲論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―」が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は殆どなく、私が調べた限りでは唯一金沢大学付属図書館だけだった。よって、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
 そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
 ちなみに、著作権のこともあるので同論文の全てはここには載せられないが、その「1頁目」は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の1頁目】

であり、その最終頁は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の21頁目】

となっている(ただし、なぜか未完に終わっている)。

 同論文の全てを載せることは著作権の関係上本ブログでは出来なかった。また、この共著『宮澤賢治と高瀬露』の在庫はもうありません。ただ、この上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ― <悪女>にされた高瀬露―」は、令和2年に出版した

 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』 (森義真、上田哲との共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)
     

にも所収されていますし、同書は現在アマゾン等でも販売されておりますのでどうぞそちらでご覧下さい。

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