みちのくの山野草

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曾て賢治氏になかつた事

2024-02-12 14:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露





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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
第六章 昭和7年の場合

 曾て賢治氏になかつた事
 ここからは昭和7年についてである。
◇賢治を中傷する女の人
鈴木 では、いよいよ最後に残った「昭和7年」分についてだ。
 まずは、この『イーハトーヴォ第十號』を見てくれ。その五頁には、高瀬露の短歌
  ・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
  ・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
などの四首が載っている。そしてそこには
 右は九月一日菊池暁輝氏を迎へての遠野における賢治の集ひの際の感歌です。
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、昭和15年9月)より>
との註釈が添えてある。
荒木 そうか、昭和15年だから賢治が亡くなって7年後に遠野で開かれた「賢治の集ひ」に露は出席していたのか。しかも「教え子ら」とも詠まれているから、賢治の教え子たちと共に賢治のことを偲びながらこれらの歌を露は詠んだわけだ。しかも「み師」というような尊称を用いて。
鈴木 その当時ならそれこそ「教え子」の澤里武治も遠野にいたのだから、武治もその集いに出ていたのだろうか。
吉田 鈴木、その『第十號』の最後の頁を見てみろ。たしか「何とかニュース」とかいうのがあって、そこに「賢治の集ひ」の参加者についても載っていたはずだ。
鈴木 そうかこの「各地ニュース」のことだな、気付いていなかった。そうだそうだ、
□翌九月一日には午後一時より前記小學校圖書室にて菊池暁輝氏を中心に、同校先生にして賢治生前教をうけた小笠原露先生及び阿部さちえ、加藤將、菊池の諸先生、花卷農學校時代の教へ子遠野靑年學校教師小原武治、靑笹靑年學校教師淺沼政規諸氏等と賢治の集ひが催され、賢治の理念、思ひ出、新しき時代に就いて靜かに語られ、また詩を朗讀し、賢治作品を歌ひ樂しい會合であつた。
<『イーハトーヴォ第十號』(同)より>
とある。当時武治は遠野で先生をしていたから、この「教へ子遠野靑年學校教師小原武治」の姓「小原」はミスであり澤里武治に間違いなかろう。しかもこの頃は淺沼政規も遠野にいて、この二人の教え子も露と一緒にその集いに出席していたのか。
吉田 それにしても露って立派だよな。あれこれ論われていることを知りながらも、臆することなく「賢治の集ひ」に出席して賢治のことを偲びながら、崇め、讃える歌を詠んでいるわけだから。このことだけからしてみても露の人柄が容易に偲ばれる。
荒木 うん? この当時露は自分が悪し様に言われていることを知っていたのかな。
鈴木 それは、この見開きの右側四頁を見ればある程度、さらに『イーハトーヴォ創刊號』を見ればなおさらに、露がそのことを知っていたと推測できる。
 特に『同創刊號』には、昭和14年10月21日に行われた「盛岡賢治の會」例會における高橋慶吾の談話が、「賢治先生」というタイトルで載っていて、「ライスカレー事件」に関して
 その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ…
などと喋ったことが活字になって載っているからな。
 そこでだ、ほら、『同第十號』の四頁のこの「賢治素描(五)」を見てくれ。そこにはどんなことが載っている?
荒木 どれどれ…この関登久也の追想「面影」の中の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
<『イーハトーヴォ第十號』(同)より>
のことだな。あれ? この「賢治氏を中傷的に言ふ云々」と似たエピソードたしか何かで読んだことがあるな。
鈴木 そう、このエピソードは関登久也の他の著書でも紹介されているからそちらを荒木は以前に見たんじゃないのかな。
荒木 そうか、「曾て賢治氏になかつた」ような一大事がその時にあり、この「賢治氏知人の女の人」とは露のことなのか。
吉田 そう一応な。そしてこの『同第十號』の誌面作りは編集者の思惑が見え見えで、当時露の噂は一部関係者には知られていたと聞くから、ほら、見る人から見ればこのように見開き両面にこれらの掲載が為されていて左右全体ではゴシップ仕立てとなっており、露はさらしものにされたと言えなくもない。
鈴木 一方、露はこの『同第十號』のみならず『同第四號』にも短歌を寄せているから、まず間違いなく露は機関誌『イーハトーヴォ』の読者であったと判断できる。それゆえ、露はこの慶吾の「賢治先生」等を直接目にしていると言えるだろう。
荒木 つまり、露は「賢治先生」等を読んでいたはずだから、自分が論われていることは十分承知だったというわけだ。
吉田 一方賢治の方だが、「一應の了解を求めに來た」というこの出来事は賢治が亡くなる一年位前のことだというから、「昭和7年9月」前後頃の、当然昭和7年の出来事となる。しかも、あの実直で真面目と思われる関登久也がこうまで語っているくらいだから、この訪問の際の賢治はいつもとは全く正反対だったということはほぼ事実と判断しても間違いなさそうだ。
鈴木 しかし、実はこの「賢治氏知人の女の人」の件だが、この『同第十號』を見ても、関登久也の他の著書を見ても「賢治氏知人の女の人」が露であるということは一言も述べていないし、それをずばり示唆する記述もまたない。
荒木 そもそも昭和7年といえば、露はその3月末に遠野に人事異動となり、小笠原牧夫と結婚、上郷小学校の先生をしていたのだから、なにもわざわざ遠野から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」必要は常識的に考えてみればなかろう。
 そうそう、そういえばこの「昭和7年」とは、以前関徳弥の例の『短歌日記』が何年に書かれたものかを考察した際に少し調べた年だ。そしてその当時の交通事情等に鑑みれば、その年の「ある勤務日」に露が上郷から花巻にやってくることはなかなか容易なことではない、というのが結論だった。
吉田 一方で、この「女の人」がちゑということもなかろう。これまたわざわざ東京から花巻にやって来て、「賢治氏を中傷的に言ふ」ことは常識的に考えてその必要性がないからだ。
荒木 そうすっと、この「賢治氏知人の女の人」とはもっと他の女性だったということも考えられないべか?
鈴木 確かにそれは言い得て、露やちゑ以外にも賢治をめぐる女性がいた可能性がある、しかもそれは全部で5人であるとさえも言っている教え子がいる。
 というのは、以前少し話題にした賢治の教え子簡 悟の次のような証言、
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
があるからだ。
吉田 この「二人の女性については、すでに話題になっておりますが」という文脈からは、この二人とは露とちゑのことであることがわかるから、妹のトシを含めたこれらの三人以外にも賢治をめぐる女性、それも「私は遠からず結婚するかもしれぬ」と賢治が簡に話した女性までもがいたというわけか。となれば、もしかするとさっきの「賢治氏知人の女の人」とはこの人のことだったということもあり得るな。
鈴木 そうか、なるほど。もともと関登久也は信頼に足る人だし、簡は、
 農学校で実習などをしている時、一寸のひまに、
「簡君、遊びに来い。」
とおつしやつて下さいましたので、しばしばお宅をお訪ねしました。御病気が大部悪い頃にも伺いましたら、もうその頃は面会謝絶をされておられました。先生のお家の人に伺いをたてると、簡君なら逢いたいと言つて、特別に何度も病床でお話を致したこともあります。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)276pより>
ということも証言しているということだから、関と簡の二人の一連の証言は共に信憑性が高いと言えそうだからな。
荒木 それは納得。ただしこのエピソードの中身がどんな中傷だったのか、それがわからんことには次に進むことは難しいべ。
鈴木 確かにその通りなのだが、実はそれ以前の問題がそこにはありそうなんだ。
◇佐藤勝治の〔聖女のさまして…〕に対する見方
荒木 何だよ、その「それ以前の問題」とは?
鈴木 ちょっと話は長くなるがまずは聞いてくれ。それは佐藤勝治のある見方についてだ。
 知ってのとおり、彼は「賢治二題」という論考において、最初に〔聖女のさまして近づけるもの〕を挙げ、次に今までに何度か引用した「このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」という例の表現を用い、この詩が「奇異の感を与える」と評している。そして続けて、露の実家と佐藤の家が比較的近いせいもあってか、同論考においては、
 私の知つているT家の人々は、しごく素直な、明るい、みじんもいやみやいんけんな所のない、実に気持のいい人々である。…(筆者略)…
 だからT女こそは彼の前にあらわれた、もつとも不運な女性であつたと私は思つている。…(筆者略)…
 かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで、なぜこのようにも彼の心を乱したのであろうか。私はこれがふしぎでならなかつたが、これを解くたしからしい鍵を見うけたと思うのは次の話である。
と論述している。もちろんT女=露だ。
 そして、「賢治研究に関して貴重な資料を頭の中にたくさんしまつている」と佐藤が称する伊藤忠吉((ママ))から聞き出したというエピソードを次に紹介している。
荒木 それはまたどんな?
鈴木 それはさ、佐藤が伊藤忠吉に、実は正しくは忠一にだが、無理矢理、『いやな思い出があつたらきかせてくれとたのんだ』ところ、
 忠吉さんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
 話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(筆者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。忠吉さんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
 もう一つの話は、忠吉さんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ((ママ))世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこで忠吉さんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、忠吉さんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。忠吉さんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
と打ち明けてくれたのだそうだ。
 そこで佐藤は、賢治が三百代言の嘘の方を真に受けた結果忠吉は濡れ衣を着せられ、弁解も受け付けられず、賢治からよくも裏切ったなと罵られたというエピソードがあったことを忠吉から聞き出せたといって、それをここで紹介していたということになる。そして佐藤は同論考で次のように考察し、
 特に私のさもあらんと思うのは、彼が、他人の告げ口を信じてすつかり怒つたことである。彼のような善良な人間は、告げ口の名人にかかると、苦もなく信じてしまうものである。三百代言と知りながらも、最愛の弟子も疑つてしまう。
 いわんやその告げ口をする人間が、もすこし上等な人間であり、自分の親しい者であると、たいてい本気になつてしまう。彼のような上品な人間は、告げ口などという下品なことはしたことがないから、上手な告げ口にすぐ乗るのである。「聖女のさましてちかづけるもの」の詩は、まさにこの種の告げ口(告げ口として常套な誇張と悪意とによる)によつて成つたものである。
と結論している。
吉田 そうか、賢治は善良なる人物である忠吉の方を疑ってしまったということか。まして、その告げ口が賢治と親しい人からのものであったならばなおさらその傾向があると、佐藤は賢治を見ていたことになる。だから、このことが〔聖女のさまして近づけるもの〕にまつわる不思議を解く「たしからしい鍵」であると佐藤は言いたいのだな。
◇実は二つは同じエピソード
鈴木 そして実際この「たしからしい鍵」を使って、今度は次のようなエピソードを紹介しながら「手記成立の」理由がわかったと佐藤は言っている。
 私は、「賢治○○」の著者から、病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。その時はそんなにむきになつて弁解した賢治を一寸おかしいと思つたぐらいであつたが、その後にその手記が発表になり、後日「賢治○○」の著者の性格を知り、その後で又このような忠吉さんの話を聞くに及んで、この手記成立の理由が私には明確に解けたのである。(「賢治○○」の著者は、彼の手許に置いていた私の原稿を、無断でそのままラジオ放送に利用したこと一つでその性格が知られよう。)
<以上いずれも『四次元50』(宮沢賢治友の会)10p~より>
荒木 あれっ、これってさっきのエピソード「それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的云々」とそっくりじゃないか。
吉田 言われてみれば、確かに。ちょっと分析しながら比較してみるとするか。大体のところ、
  病床の彼=賢治
  T女=賢治氏知人の女の人
  T女の行為=賢治氏を中傷的に言ふ
  大層興奮し=違つた場合を見た樣な感じを受けました
  著者の友人の家=関登久也の家
  いろいろと弁明=一應の了解を求め
  むきになつて弁解=曾て賢治氏になかつた事
となるから、この二つはほぼ同じエピソードだと判断できるね。
荒木 さてはて、〝「賢治○○」の著者〟とは一体誰なんだべがね。だいたいは想像が付くけど。
吉田 そう、その想像どおりだよ。それでは次に、佐藤が伝えるこのエピソードを僕なりに翻訳してみるとするか。
 賢治と親しい〝「賢治○○」の著者〟Xが病床の賢治にその後の露に関する「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて、翌日大層興奮してXの友人でもある関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後にわかった。
 他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減なXのことだから、病床の賢治に「噂話」程度の露の行為を告げ口、それも告げ口の常套である誇張と悪意によるそれだったことと、忠一の証言から判るように、人の告げ口を信じやすい賢治のことだからそれを真に受けてしまった。それが元で、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 また、後にXは「賢治○○」において露に関わる手記を発表したが、その手記のいい加減さは、他人の原稿を無断で利用するようないい加減さによるものだと捉えれば説明がついたので、私とすればこの手記成立の理由が明確に解けたのであった。
どうやら、佐藤はこう言いたいかったようだな。
荒木 そうすると結局、
   「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」
     ≒「誇張と悪意に満ちた告げ口をXがした」
という近似式が成り立つ可能性が極めて高いわけだ。
吉田 一方で、果たしてその女の人が中傷したかどうかは確たる証拠があるわけではない。その中傷の中身を云々する以前の問題として、中傷行為そのものが事実あったのかどうなのかという問題があるということか。これが、先に鈴木が「それ以前の問題がそこにはありそうなんだ」と言った意味だったのだな。
鈴木 うん、そういうこと。実は、この頃肝に銘じていることの一つに、何を証言しているかだけではなくて誰が証言したものか、ということも極めて大切なのだということがある。その点から言えば、『佐藤勝治はとても信頼の置ける人だった』ということを私は勝治と親交の深かった人から直接教わっているので、この勝治の証言は信じることができると確信している。したがって、この「賢治二題」の趣旨に従えば、先程の吉田の翻訳はほぼ妥当だろう。
吉田 要するに、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に」果たして言ったかどうかは定かではないし、はたまたこの「女の人」が露であるのかさえも怪しい。ついては、そのようなあやふやなものに基づいて検証することなどは無意味、検証以前の話ということになりそうだな、またもや。
荒木 したがって、
 関登久也の「面影」における『賢治氏知人の女の人』絡みのエピソードによって<仮説:高瀬露は聖女だった>を棄却などする必要はない。
ということになる。いやあ嬉しいな。
吉田 おっ、今度は『いやあ嬉しいな』が出たな。
鈴木 今回も露にとっては好ましい結果だったので抃舞している荒木を見て私はほっとしているのだが、つい「稲コキ用のモーター」の件を喋ってしまったので、賢治を尊敬する荒木に対してはちょっと気の毒なことをしてしまったと思っている。
荒木 いやそれとこれとは別だ。先に教えてもらった追想「面影」の中の一節で、
 それだけ賢治が普通人に近く見え、何時よりも一層親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたといふ私の賢治を説明する常套語とは反對の普通の親しみを多く感じました。
と関が心情を吐露していたわけだが、俺も賢治に一層親しみが増した。それこそ《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということで、歓迎すべきことだよ。
吉田 とかく賢治の言動となると、一般に良心的解釈をする傾向があるが、まずは常識的な見方を大切にしないとな。人間賢治のことを考える場合でも特別扱いなどせずに、普通の感覚で見ていかないと肝心なことを見誤ってしまって、賢治以外の人を傷つけてしまいかねない。
荒木 そういう点から言えば、この件に関しては賢治に非があったことは明らかであり、関登久也の言うとおりであったということだよ。いくら賢治が好きな俺だって、それぐらいのことは弁えている。また賢治にしたって、他人を傷つけてまでして自分を庇ってもらうというような卑怯な扱い方など、ちっとも望んでいないはずだ。
 それではこれで検証作業は全て完了か。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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*****************************************************《上田哲の論文掲載の経緯等》********************************************
 『宮澤賢治と高瀬露』は上田哲との共著であり、次の二部構成になっている。
   Ⅰ 「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―       上田 哲
   Ⅱ  聖女の如き高瀬露                       鈴木 守
 そしてこの共著の最初の頁を、 
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の転載について】

としたように、不思議なことに、上田哲の上掲論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ―〈悪女〉にされた高瀬露―」が所収されている『七尾論叢 第11号』が所蔵されている図書館等は殆どなく、私が調べた限りでは唯一金沢大学付属図書館だけだった。よって、一般市民が同論文を読むことは事実上困難である。
 そこで、この論文を多くの人々に読んでもらいたいと願って、上田哲のご遺族から同論文の転載許可をいただき、その旨を当時の同論叢の編集委員であった三浦庸男氏(埼玉学園大学教授)にご報告したところ、もはや七尾短期大学は存在していなこともあり、転載は問題ないだろうという御判断を頂戴したので転載させていただいた次第である。
 ちなみに、著作権のこともあるので同論文の全てはここには載せられないが、その「1頁目」は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の1頁目】

であり、その最終頁は、
【「「宮沢賢治伝」の再検証㈡― <悪女>にされた高瀬露―」の21頁目】

となっている(ただし、なぜか未完に終わっている)。

 同論文の全てを載せることは著作権の関係上本ブログでは出来なかった。また、この共著『宮澤賢治と高瀬露』の在庫はもうありません。ただ、この上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡ ― <悪女>にされた高瀬露―」は、令和2年に出版した

 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』 (森義真、上田哲との共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)
     

にも所収されていますし、同書は現在アマゾン等でも販売されておりますのでどうぞそちらでご覧下さい。

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