みちのくの山野草

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あり得ベからざる「農民」「田舎の人」蔑視

2024-02-13 14:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)〉

 前回私は
 光太郎には「田舎の人だから」という蔑視が微塵もなかったということを山口の人たちはすぐに分かって、光太郎を信頼し、敬愛したのであろう。
と述べたが、そこで逆に気になるのが、実は宮澤賢治研究家の中には案外そうでない傾向があるということだ。例えば、かつての投稿〝怒りを通り越して悲嘆するしかない〟で取り上げた下掲のような「農民蔑視」や「田舎の人蔑視」の傾向がである。

 『太陽 5月号 No.156』に宮澤賢治の特集があり、その中の対談において賢治の肥料設計等に関連した次のような内容も話し合われていた。
T だけれども、たとえば農民に肥料相談をし肥料設計をしてやっている宮沢賢治と、童話の主人公の名前を何回も書き直して苦労して原稿を書き直している宮沢賢治との間には当然どこかで葛藤があると思うのね。それが私にとって、たいへんドラマティックに見えるんだけれども。それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから。だから自分の教えてあげた肥料でうまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれないようなね。
A それはもう当りまえですよ。
T そいうことを知っているはずでしょう。
A もちろん知っていますね。
            <『太陽5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月発行)94p >
 私はこの二人(A:宮澤賢治研究の第一人者、T:女流作家)のやりとりを知って、とりわけ作家T氏の『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ。田舎の人だから』という発言等に遭って、愕然とした。
 まずそれは第一に、T氏はこのように農民のことを見ているのかということに対してである。せめて心のうちで、
  ・農民なんかずるい
  ・田舎の人だから
と思っているのであればまだしもだが、このような決め付け方と論理で公の場でかような発言をし、しかもそれを躊躇いもなく世に送り出していたということを当の農民が知ったならば、農民がどう感ずるだろうかということは明らかなことであり、そのことが危惧されるからだ。ましてそのようなことを、あろうことか賢治研究家が堂々と語り合っていたからなおさらにだ。またもちろん、人間がずるいかずるくないかをその職業のくくりで決めつけられたのではたまったものではなかろう。
 その上、言葉に関して敏感なはずの作家が『農民はずるい』ではなくて『農民なんかずるい』というように表現しているからである。この「なんか」の一言からT氏の「農民」に対する蔑視がいかようなものかがほぼわかる。さらには、その理由が「田舎の人だから」とT氏は決めつけていることになる。はたしてこのような倫理観や論理でよいのだろうか。
 第二に、そのことをA氏が否定していないことにもである。ただし、A氏の『それは当たりまえですよ』とは『農民なんかずるい』に対してではなくて、『うまいこといったら、先生様だし、それが失敗したらなんだといって、ジャガイモ一つもくれない』ということに対して述べたことだったのだということであれば多少は私の心は軽くなるが。
 そして第三に、賢治は「そういうことを知っている」と二人はそれぞれ推測し、断定していることにである。なぜなら、ここでの「知っている」とは会話の流れから言って『それは農民なんかずるいのを知っているわけよ』の「知っている」であり、そしてそれはとりもなおさず、
   農民なんかずるいのを知っていた。それは農民は田舎の人だからであると賢治も農民を見ていた。……❎
と、この二人は言っていることになるからである。どうも、そこには抜きがたい「農民蔑視」が賢治にもあったということをこの二人は当然の如くに認めていると私には思わざるを得ない。

 そしてこの時に思い出してしまうのは、「旧校本年譜」や『新校本年譜』のあの記載、
九月二〇日(水) 前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎とのことである。…投稿者略…
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであったが何時間にも思われるほど長く感じられ、その人が帰るといそいで賢治を二階へ抱えあげた
。───★
                〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)714p~〉
である。というのは、この記載を裏付ける根拠は不確か、つまり杜撰だからだ。にもかかわらずこれが『校本年譜』に載っていれば、この「★」が事実であったということが担保されていないにのにも拘わらず、殆どの人は事実と思ってしまい、その結果定説となっているという現実がある。それゆえに、この記載「★」は、花巻地方の農民は愚鈍だと侮っている虞が極めて大であり、「賢治年譜」は農民を愚弄している蓋然性が頗る高いことになる。当然人権侵害の恐れが極めて大である。『校本年譜』に載せることは、事実であるということが検証出来てはじめて可能であることは当然のこなのに、その大前提を蔑ろにしているのだ。

 さりながらよくよく思い返してみると、たしかに賢治自身は〝❎〟と見ていた節があり、彼にも抜きがたい「農民蔑視」があったことは否めない。それは、例えば次のような詩を読み直してみれば、そのような点が賢治にもあったことを否定しきれないからでもある。
  七三五  饗宴
                  一九二六、九、三、
   酸っぱい胡瓜をぽくぽく嚙んで
   みんなは酒を飲んでゐる
    ……土橋は曇りの午前にできて
      いまうら青い榾のけむりは
      稲いちめんに這ひかゝり
      そのせきぶちの杉や楢には
      雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
   みんなは地主や賦役に出ない人たちから
   集めた酒を飲んでゐる
    ……われにもあらず
      ぼんやり稲の種類を云ふ
      こゝは天山北路であるか……
   さっき十ぺん
   あの赤砂利をかつがせられた
   顔のむくんだ弱さうな子が
   みんなのうしろの板の間で
   座って素麺をたべてゐる
     (紫雲英植れば米とれるてが
      藁ばりとったて間に合ぁなじゃ)
   こどもはむぎを食ふのをやめて
   ちらっとこっちをぬすみみる
           <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)24p >
  一〇三五  〔えい木偶のぼう〕
                  一九二七、四、十一、   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ
           <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)122p>
 前者では、「下根子桜」に移り住んだ直後に詠んだであろうその出だしの「酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで/みんなは酒を飲んでゐる」からそれを感じ取れる。
 また、それから約一年が経ったというのに、その時に詠んだであろう後者からはズバリそれが読み取れる。この「えい木偶のぼう」も「黒股引の泥人形め」もともに近隣の小作人のような百姓のことであろうし、しかもあの〔雨ニモマケズ〕の「デクノボー」がここでは「えい木偶のぼう」と苦々しい思いを込めて詠み込まれているのである。まさに賢治の教え子小原忠の、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
           <『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p >
という評は、このようなことを指しているのかもしれないと私は思ってしまう。
 あるいは一方で、座談会「宮沢賢治先生を語る会」におけるK(高橋慶吾)の証言、
 (賢治は)純粹の百姓の中から藝術家は出來ないと云うてゐた。若し出たとすれば、それはその人の先祖が商人であつたとか、士族であつたとかさういう系統を引いた人なんだと云つた。
           <『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)249p>
 はたまた、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」における川村尚三証言の中の
 農民は底にひそめた叛逆思想をもっていて、すくいがたいがとにかく今一番困ることに手助けしてやらねば……というようなことを言ったのも記憶している。
           <『岩手史学研究NO.50』(岩手史学会)220p>
などを思い起こしてみると、賢治自身もやはり心の底では前掲の〝❎〟のように、
   農民なんかずるい。とりわけ小作人は。
と捉えていたことは否めないようだ。
 つまるところ、抜きがたい農民に対する蔑視が賢治にもあったということになりそうだ。だから当然、そのような立場になること、とりわけ「小作人」になるなどということは毛頭彼の頭の中にはなかったのだったと解釈すれば、賢治からすれば、甚次郎に対しては「小作人たれ/農村劇をやれ」なのだが、自分に対してはそうではないというダブルスタンダードがやはりあったのだと解釈すれば今までの疑問はほぼ完全に氷解する。端的に言えば、甚次郎は「純粹の百姓」であり、それと違って自分は「先祖が商人」であるという抜きがたい階級意識が賢治にはあったのかもしれない。

 つまるところ、光太郎には「田舎の人だから」という蔑視がなかったということを山口の人たちはすぐに分かって、光太郎を信頼し、敬愛したのであろう。そのような蔑視は光太郎には微塵もなかったからだ。

 さて、こうなると気になるのは、ほぼ同じ時代に同じく独居自炊をした光太郎と賢治だが、どうやらそこには二人の間に大きな差があったのではなかろうかということである。
 とはいえもちろんあの賢治のことだから、「羅須地人協会時代」にこのような抜きがたい農民蔑視があったことの重大さと深刻さに後々賢治は初めて気付き、自責と悔恨の念が次第にもたげてきて慙愧に堪えなかったはずで、そのことが賢治をして、
・「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」という謝罪の書簡(258)を伊藤忠一へ出させしめ、
・手帳に〔雨ニモマケズ〕を書かせしめ、
・柳原宛書簡(488)には「慢」の一字を書かせしめた。
のだという蓋然性がかなり高いのではなかろうかということを私は思い付く。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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