みちのくの山野草

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凡人から見た「世界がぜんたい幸福」

2018-09-16 20:00:00 | 賢治渉猟
 この度、たまたま相田みつをの、
    しあわせはいつも自分のこころがきめる。
という言葉を知った。そして私は、そうそうそうなんだよと頷きながらその一方で、『農民藝術概論綱要』の序論で高らかに謳い上げている賢治のあの論理を同時に思い浮かべた。
 それは、少なからぬ賢治研究者等が真剣になって論じ、この言はとても素晴らしくて深いと評している(と私は認識している)、あの
    世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。……①
という論理をだ。

 さりながら、以前〝凡人から見た天才賢治(ぜんたい幸福)〟で述べたように、この考え方〝①〟は論理が破綻していて、普通は成り立ち得ないのではなかろうかと凡人の私は常々考えていた。なぜならば、この論理に従えば、今まで「世界がぜんたい幸福」になったことなど一度もなかったはずだから、地球上に誰一人として幸福であった人は存在しなかったことになるし、未来永劫幸福になれないということもほぼ限りなく自明だからだ。だが、もちろん、幸福だと感じた個人も数限りなくいたであろうことも、自明だからだ。
 言い換えれば、常識的には〝①〟という論理は成立せず、いくら論じても実質的には意味がないと私は認識している。そして、学者さんはいざ知らず、凡人の私は「幸福」ってそんなもんじゃないだろと反撥してしまいたくもなる。そう、相田の言う通りで、「幸福」<*1>あるいは「しあわせ」<*2>っていうものは「自分のこころがきめる」ものだよね、と。

 そしてそもそも、あの賢治が「常識的にはこの〝①〟は論理的には成り立たない」ということぐらいは十分承知の上なはずで、賢治はもっと違う見地から〝①〟を掲げたのだと、例えば、彼が保阪嘉内を熱心に折伏していた当時の理論武装のための論理であったのではなかろうかということを最近の私は考えている。
 実際、賢治は嘉内が退学した時、「今は摂受を行ずるときではなく折伏する時ださうです」と大正7年3月の書簡で述べている、ということだし、大正9年12月の書簡では、今度私は国柱会信行部に入会いたしました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです 謹んで此事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉りますと述べているわけで、賢治はこの〝①〟が普遍的な真理だと言っているわけではなく、そのような気概で折伏せねばならぬと心懸けていたのだ、と解釈すればすんなりと私は納得できる。

 このことは、佐藤勝治が
 彼(賢治)は大正七年三月(一九一八)農学科第二部を卒業し、さらに二年間研究生として地質・土壌・肥料の勉強をします。こういう方面に強い関心を持ち、その点はずっと変わらなかったのです。しかしその間に、法華経信仰の心もますます昂まってゆき、地質学研究科を卒業すると同時に、父母の反対を押し切って法華経中心の日蓮宗の一派である本化妙宗に入信し、翌年一月、その運動団体である国柱会の事業に挺身するために、無断で生家を出て上京したのであります。国柱会は一天四海皆帰妙法<*3>(世界がぜんたい法華経の真理に帰依してまことの幸福に入ること)を目標として行動的な信仰を唱えていました。
            〈『宮沢賢治入門』(佐藤勝治著、十字屋書店)4p〉
と論じていることからも示唆される。

 そこで簡潔に言えば、
    賢治にとっては、
     〝①〟=国柱会の一天四海皆帰妙法
   という等式が成り立つ。

ということではなかろうか。つまり、
 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
世界がぜんたい法華経の真理に帰依して(こそ初めて)まことの幸福に入る
国柱会の一天四海皆帰妙法
ということではなかろうか。
 あるいはまた、賢治は国柱会の信行員であったが故に、彼をして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言わしめたということではなかろうか。

 繰り返しになるが、たまたま相田みつをの、
   しあわせはいつも自分のこころがきめる。
という言葉をこの度知った。その一方で、そもそも、論理的にも実質的にも〝①〟が成り立つことはまずほぼあり得ないと思っていた。そこで私は、「幸福」とか「しあわせ」とかは、まさに「自分のこころがきめる」ものであり、しかもこのことは殆ど全ての人が肯んずるところでもあろうことを改めて確信した。
 例えば私などは、この投稿のトップに掲げたような景を目の当たりにしただけで、ただそれだけで「しあわせ」だなと感じてしまう。確かに私はかくの如くどうしようもない凡人だ。しかし、凡人の私には相田のこの言葉の方がはるかに説得力があるし、納得もする。だから凡人の私にとって〝①〟は金科玉条ではなく、猫に小判だ。
 延いては、「賢治のことと雖もおかしいことはおかしい」ということにいつも躊躇いの伴う凡人の私ではあるが、
    賢治のことと雖もおかしいことはおかしい。
とやはり言い続けなければらないのだということ、そして凡人も賢治を論じていいのだということををちょっとだけ確信した。

<*1:投稿者註> 『広辞苑』によれば、
【幸福】心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。
<*2:投稿者註> 〃
【しあわせ】幸福。好運。さいわい。また、運が向くこと。
            〈共に電子辞書 PW-M800より〉
<*3:投稿者註> 実際に国柱会のHPを見てみると、その巻頭言に、
 私はいつも地球上の全ての人々が幸せになることの願いをこめてお祈りを捧げています。世界全体が一体化された今の世の中にあっては、世界全体の安泰なくして自国の安泰は有り得ません。自国の安泰は、他国との共存共栄を願う中にこそ実現されるのであり、立正安国の祈りも、他国を度外視して日本のみの安泰を願う祈りであってはならないと思います。私達同志の願業である「一天四海皆帰妙法」と重ね合わせて理解すべきだと思います。現実の社会においては、このことの成就にはまだまだ程遠い状況にあるのは事実ですが、この祈りをいっときでも絶やせてはならないと思います。
 「一天四海皆帰妙法」は壮大な目標であり、成就までにはかなりの歳月がかかる事は、紛れもない事実であります。
とあった。
 したがって、「一天四海皆帰妙法」は国柱会同志の願業であり、壮大な目標だったのだ。おそらく、当時も今も。
 そしてこのHPの巻頭言を知って気付いたことが一つある。それは、
    賢治のいう幸福=国柱会のいう安泰
ということなのかな、ということにだ。つまり、賢治のこの「幸福」は、一般的なそれではないのかもしないということに。つまるところ、賢治は、「一天四海皆帰妙法」という国柱会同志の願業を、あのように表現したのではなかろうか。

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