岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

佐藤勝治の見方

2018-03-19 10:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)》
 それでは、ここでは佐藤勝治の『宮沢賢治入門』(十字屋書店)における法華経関連の記述を調べてみたい。
 例えば佐藤は、
 彼(賢治)は大正七年三月(一九一八)農学科第二部を卒業し、さらに二年間研究生として地質・土壌・肥料の勉強をします<*1>。こういう方面に強い関心を持ち、その点はずっと変わらなかったのです。しかしその間に、法華経信仰の心もますます昂まってゆき、地質学研究科を卒業<*2>すると同時に、父母の反対を押し切って法華経中心の日蓮宗の一派である本化妙宗に入信し、翌年一月、その運動団体である国柱会の事業に挺身するために、無断で生家を出て上京したのであります。国柱会は一天四海皆帰妙法(世界がぜんたい法華経の真理に帰依してまことの幸福に入ること)を目標として行動的な信仰を唱えていました。
            〈『宮沢賢治入門』(佐藤勝治著、十字屋書店)4p〉
ということを述べていた。そこで私は、佐藤のこの「国柱会は一天四海皆帰妙法(世界がぜんたい法華経の真理に帰依してまことの幸福に入ること)を目標として行動的な信仰を唱えていました」という記述を知って、やはりそういうことかとまず納得した。特に、あの「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は、この国柱会は一天四海皆帰妙法そのものなのだ、と。そして、以前〝「縁起」と「ぜんたい幸福」〟において、
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の正しい理解は、法華経のことがよく解らない限りは無理だろうということもほぼ自明だ
と私はつい口走ってしまったが、実は案外そのとおりだったのかもしれない、と私は思ってしまった。

 さらに佐藤は、
 日蓮宗は開祖日蓮聖人が政治に法華経を実現したいという情熱を燃やした伝統があり、そのため賢治が参加した国柱会のように、政治運動の色彩の濃い団体も時々生まれるのです。
と引き続いて述べていた。そこで私はハッとした、そういうことなんだよな、と。この時の賢治の家出・国柱会入会は、少なくとも形態的には政治運動の為だったと見られないこともないな、と。そしてまた、改めて〝178 大正9年12月2日付保阪嘉内宛書簡〟の中の、
  今度私は
  国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。
     …(投稿者略)…
  田中先生に 妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。
            〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)〉
を読み直してみると、賢治が如何に智学に心酔しているかが覗える書簡だと今までの私は思っていたが、実は、この頃の賢治は国柱会・智学に対してファナティックであったと表現する方が実は的確なのかもしれない、と思うようになってしまった。

 しかも、天才にはよくあることだと思うのだが、賢治は熱しやすく冷めやすい性向があるから、このようなファナティックの状態はあまり長続きがしないということも予想される。大体7~8ヶ月が経つと冷めてしまう性向が賢治にはあるからである。
 そして実際、当初は〝大正10年1月30日付関徳弥宛書簡〟において、 
さあこゝで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版、校正、著述)からはどんな目にあってもはなれません。こゝまで見届けて置けば今後は安心して私も空論を述べるとは思はないし、生活ならぱ月十二円なら何年でもやって見せる。
           <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)>
というほどの決意を同信の関に語っていたこの時の家出だったのだが、結局は8ヶ月後には実家に戻っている。

<*1:投稿者註> 『新校本年譜』によれば 大正7年(1918年)
    三月十五日(金) 卒業証書授与式が行われる。「地質土壌。肥料」研究のため研究生として在学の件許可される。  
<*2:投稿者註> 同じく 大正9年(1920年)
    五月二十日(木)盛岡高等農林学校研究生を終了

 続きへ
 前へ 
 “〝上田哲の「Ⅰ 賢治と国柱会」より〟の目次”へ。
岩手の野づら”のトップに戻る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿