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賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)

2024-01-09 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》










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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ)
 ところで、山形の松田甚次郎がなぜわざわざ岩手の賢治の許を訪れたのか。その経緯は、それこそ甚次郎が著して当時大ベストセラーとなった『𡈽に叫ぶ』の巻頭「一 恩師宮澤賢治先生」によってある程度知ることができる。ちなみに同書は次のようにして始まっていて、
     一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、…(筆者略)…その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13)1p >
と述べられているから、当時甚次郎は盛岡高等農林学校の学生であり、賢治の後輩であったことが関係していたためだと言えそうだ。
 さらに、甚次郎は追想「宮澤先生と私」において、
 盛岡高等農林學校在學中、農村に關する書籍は隨分と讀破したのであるが、仲々合點が行かなかつた。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協會の事が出て居つたのを讀む(ママ)で訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる樣な實になつかしい面持ちで早速二階に通された。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14)424P >
とも述べているので、「或日岩手日報で先生の羅須地人協會」の記事を見たことがその「下根子桜」訪問の直接の切っ掛けであったと言えるだろう。
 さてそれではその新聞記事が具体的にはどのようなものであったかだが、それは松田甚次郎の日記を見ればわかる。というのは、甚次郎は当時日記を付けていて、しかもその日記には出納帳もついているので、甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪ねた日は
   初めて訪れたのが昭和2年3月8日

   2度目にして最後に訪れた昭和2年8月8日
の2回であり、その2回しかないことがわかる(<注三>)。
 よって、甚次郎が見たであろう「羅須地人協會」の記事とは、昭和2年2月1日付『岩手日報』の次の記事、
 農村文化の創造に努む
    花巻の靑年有志が 地人協會を組織し
                自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の靑年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一囘の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協會員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三囘づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協會の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
であったとほぼ判断できる。
 なおこの他にもう一つだけ、大正15年4月1日付同紙の「新しい農村の 建設に努力する 花巻農学校を 辞した宮澤先生」という見出しの記事も考えられないわけでもないが、それではあまりにも時期がかけ離れているし、こちらの場合には「羅須地人協會」という固有名詞も使われていないので、まずはあり得ないだろう。
 そこでこの記事のポイントを箇条書きにしてみれば、
(1) 羅須地人協会を創設し農村文化の創造に努力する
(2) 現代の悪弊都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こす
(3) 田園生活の愉快を一層味わうために原始人の自然生活たち返る
(4) 収穫物を持ち寄り物々交換する制度導入
(5) 農民劇農民音楽を創設して家族団らんの生活を図る
ということになるから、甚次郎はこれらのことに感ずるところがあって「下根子桜」に賢治を訪ねたと言えるだろう。
 さて話はまた甚次郎の『𡈽に叫ぶ』に戻る。同書には、甚次郎が昭和2年3月の「下根子桜」訪問の際に、
 赤石村を慰問した日のお別れ夕食に握飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和やかな氣分になつた時、先生は嚴かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ──
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農會でもない。實に小農、小作人であつて將來ともこの形態は變らない。…(筆者略)…君達だつて、地主の息子然として學校で習得した事を、なかば遊び乍ら實行して他の範とする等は、もつての他の事だ。眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の真面目が顯現される。默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をただただ信じ切つた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p >
と、「終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ」「訓へ」があったということをそこで述べている。
 ということは、前掲の〝(1)~(5)〟がこの「小作人たれ/農村劇をやれ」に集約されていると甚次郎は受け止め、いたく感動して、この「訓へ」のとおりに生きて行こうとこの時即座に決意したのだろう。
 しかし一方で、甚次郎のこの記述が事実であったならば、賢治の甚次郎に対する教訓の仕方は私には正直意外である。「そんなことでは私の同志ではない」という言い方などから窺える賢治の強い口調、妥協を許さない姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていると感ずるからである。しかも、「黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。……今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」というようなだめ押しまでを賢治が言うなどということはゆめゆめ思っていなかったからだ。だからもしかすると、賢治の発言に対して甚次郎は多少自分の想いを織り込みすぎた記述をしているという可能性も否定しきれない。がしかし、少なくとも甚次郎がこのように受け止めたという事実は動かせない。
 さらに賢治は続けて「農村劇をやれ」ということに関しては、次のように諭したと『𡈽に叫ぶ』は伝えている。
 次に農民芝居をやれといふことだ。これは單に農村に娯樂を與へよ、といふ樣な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず藝術生活が生れる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる藝術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、藝術を實現しつゝあるのだ。たゞそれを本當に感激せず、これを纏めずに散じてゐる。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した暁には、農村も農家もどんなにか樂しい、美しい日々を送り得ることであらうか──と想ふ。…(筆者略)…
 そしてこれをやるには、何も金を使はずとも出來る。山の側に土舞臺でも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい。唯、常に教化といふことゝ、熱烈さと、純情さと、美を沒却してはいけない。あく迄も藝術の大業であることを忘れてはならいない」と懇々教えられた上、小山内氏の『演劇と脚本』といふ本をくださつた。そしてこれをよく硏究して、靑年達を一團としてやる樣にと、事こまごまとさとされた。つい時の過るのを忘れ、恩師の溫情と眞心溢るゝ教訓に、首を垂れたものであつた。
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)4p >
 それにしても、自分は小作人になっているわけでもない賢治が「小作人たれ」とまず諭し、続けて「農村劇をやれ」と一回り以上も年が若い甚次郎に対してたたみかけ、結果的には他人の人生を決定づけるようなことを言い切ったということは私にとっては予想外であった。一方で、賢治に初めて見えて直ぐさま彼に尊敬の念を抱き始めたのであろう甚次郎とすれば、「そんなことでは私の同志ではない」と外堀を埋められてしまえばその選択肢は他にはなかったのではなかろうかということさえも私などは想像してしまうのだが、おそらくそうではなくて、賢治からのこの時の「訓へ」は熱と気迫のこもったものだったので甚次郎は圧倒されると共にとても感動し、たちまち賢治に心酔するようになっていったに違いない。
 そして実際、この「訓へ」どおりに甚次郎は故郷山形の稲舟村鳥越に戻って本当に小作人になり、農村劇を毎年のように上演しながら農村改革に我が身を捧げ、遂には昭和18年8月4日、賢治より若い享年35歳で志し半ばで斃れてしまうのである。

〈注三:本文7p〉佐藤隆房は、『宮澤賢治』(冨山書房)において、
     八二 師とその弟子
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、旧冬の東北は天も地も凍結れ、路はいてつき、弱い陽が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風にゆり動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒のマントを着た高農の生徒が辿って行きます。生徒の名は松田君、岩手日報紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導にあたる。」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房、昭和26年)197p >
と述べていて、大正15年12月25日にも甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪れたことにしているが、少なくとも甚次郎自身の日記及び出納帳を見る限りそれは事実とは言えず、訪ねてはいないだろう。
 ちなみに、甚次郎の当日の日記は下記のとおりである。
1926年 12月25日(土)戌子 クリスマス
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 noot
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
 人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
 明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<大正十五年の『松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、甚次郎はこの日は花巻の賢治の許にではなくて、大旱魃罹災によって飢饉寸前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛いというようなことも記している。したがって慰問後は直盛岡へ帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしてはるわけでもない。このことは、同日記所収の「出納帳」によって、この日購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことからもそれが確認できる。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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