みちのくの山野草

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賢治の最も短い詩「草刈」?

2024-01-08 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》




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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 賢治の最も短い詩「草刈」?
 さてこれで、限りなく賢治が詠んだのであろうと思われる「草刈」という題の詩は、
  寝いのに刈れと云ふのか
  冷いのに刈れと云ふのか

  冷いのに刈れと言ふのか
  眠いのに刈れと言ふのか
あるいは
  つめたいというのに刈れというのか
  ねむいというのに刈れというのか
のいずれかであろうということがほぼわかった。
 そこで次に、私は山形の『新庄ふるさと歴史センター』を訪ねて行った。というのは、甚次郎が賢治から贈られたと思われる『春と修羅』には、
    昭和六年二月 松田甚次郎 
と墨書されているし、かつて私は甚次郎の大正15年や昭和2年の日記を同センターで見せてもらったことがあるので、今度は昭和6年のそれを見せてもらえばこれらの三つの中のいずれが賢治が詠んだ詩であるかがもう少し明らかになると思ったからだ。がしかし、残念ながら昭和6年のものは所蔵されていなかった。
 とはいえ、これらのいずれかかあるいはこれと酷似した内容の詩「草刈」を賢治が詠んだという蓋然性は極めて高いことに変わりはないから、もしこのことが事実であるとするならば、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩と今までいわれてきたものよりも、この「草刈」はさらに短い詩であるということになりそうだ。
 なぜならば、栗原敦氏の論考「最も短い詩、その次の長さの詩…」の中に、賢治が詠んだ詩の中で最も短い詩は、
  報告
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
              (一九二二、六、一五)
  イーハトーブの氷霧
けさじつにはじめて凜々しい氷霧だつたから
みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した
             (一九二三、一一、二二)
<『NHKシリーズ宮沢賢治』(栗原敦著、NHK出版)17p >
の二作品であると述べられているが、前掲の「草刈」のいずれにしてもこれらよりもさらに短いからだ。
 なお、当初私は、「草刈」の詩が上掲のいずれであったにせよその中身はあまり賢治らしくない詩だと思っていたので違和感があったのだが、栗原氏の掲げたこれらの二つの詩に対して同氏が「投げ出されたままのような作品」と前掲書で評していることを知って、「草刈」もまさにこれらの二作品と実によく似た「投げ出されたままのような作品」なので、この「草刈」が賢治の詩であるとしてもそれ程の違和感がなくなった。したがって私はますます、
 松田甚次郎が賢治の許を訪れた際に、賢治は「草刈」という題の「眠いのに刈れと云ふのか/冷たいのに刈れと云ふのか」というような内容の詩を詠じた。しかもその詩は賢治が詠んだ詩の中で最も短い作品である。
という蓋然性が極めて高いと思えるようになったし、この「最も短い詩」という観点からいっても、限りなく賢治が詠んだであろうと推断できるこの詩「草刈」は興味深いものである。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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