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2868 賢治、家の光、犬田の相似性(#35)

2012-09-04 09:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
 (今回からは何とか犬田卯に戻れそうです)

『野良に叫ぶ』出版以降
 大正15年7月1日に発刊された『野良に叫ぶ』は評判を呼び、7月の下旬に入ると「各方面から『野良に叫ぶ』の礼状や感想が舞い込」んだという。一方で渋谷定輔はこの頃、「農民自治会」運動にも懸命になっていたという(『農民哀史』(渋谷定輔著、勁草書房)所収の年譜より)。
 そこで今回は、「農民自治会」等を通して『野良に叫ぶ』が出版されて以降の渋谷定輔と犬田卯について少し調べてみたい。

1.「農民自治会」
 さてこの「農民自治会」とは何ぞや。渋谷定輔は『大地に刻む』において次のようなに述べている。
 農民自治会は大正十四(一九二五)年十、十一月にわたり、発起人下中弥三郎、石川三四郎、中西伊之助、渋谷定輔らによって、創立趣意書、標語、綱領、規約の草案が作成された。…(略)…大正十四年十二月一日午後六時、東京神田錦町三の三、平凡社に前記四名のほか、竹内愛国(国衛)、大西伍一、川合仁、高橋友次郎らが参集、創立委員会を開催。…(略)…形式的な創立大会は行わず、向こう一年後に全国会議を開くこととし、直ちに、宣伝組織活動が開始された。
この発起人の最初にその名がある下中弥三郎とは、例の『大百科事典』を出版した平凡社の創設者であるが、この「農民自治会」はその下中や渋谷定輔等が立ち上げた組織であるという。ちなみにこの「農民自治会」の〔標語〕は
一、農民自治の精神に基づき、農民生活の向上を期す。
一、協同扶助の精神を以て、友愛の実を挙げんことを期す。
一、都会文化を否定し、農村文化を高調す。
というものだ、とある。この〔標語〕を知ってみると、犬田卯などは諸手をあげて賛同しそうだし、実際後に加わっていることがわかる。それは、昭和2年3月下旬に開かれた「農民自治会」の「第一回全国委員会」のメンバーの中に
 〔全国連合委員〕(東京)下中弥三郎…犬田卯…
というように委員の一人として犬田卯の名が見えるからである。
 ところがこの「農民自治会」は
 第一回全国委員会後、組織は急速に拡大し北海道より沖縄に至る三十数府県に単位自治会の創立されたもの六三、準備中のもの百余ヶ所。…(略)…とくに昭和三(一九二八)年非政党同盟の実践活動を通じ、従来の農民自治運動の自己批判が行われた。その結果、農民自治会のもつ、自主・自治・自律という農民自身の主体性を基礎に、全農民組織の統一戦線を実現すべきであるという強い主張となった。…(略)…他方、農民自治会を思想グループとして組織したところは、講演会や研究会が行われたが、農民大衆の現実の経済的政治的要求とは遊離し、もっぱら農自思想文化の啓蒙的少数グループに終始していた。したがってこの二つの傾向は必然的に、農民自治会として、その運動方針の上に明確な対立を生じた。
 この状況の中で、全国連合の在京委員の一部の重農主義思想グループは、農民文芸会の機関誌『農民』と『農民自治』との合併を行い『農民自治』は昭和三(一九二八)年八月五日号の第十八号を以て終刊となった。
<いずれも『大地に刻む 渋谷定輔評論集』(渋谷定輔著、新人物往来社)より>
ということだから、渋谷定輔と犬田卯はある期間一緒に活動したものの、次第に渋谷定輔の方は統一運動の推進に専心するようになり、犬田卯の方は少数グループに属しながら農民の啓蒙に努めていたということになるようだ。なお、『農民自治』とは「農民自治会」の機関誌のことである。
 やがてこの対立は抜き差しならなくなって昭和3年に「農民自治会」は分裂、安藤義道氏によれば、
 革新派の中西伊之助、渋谷定輔、延原政行、竹内愛国等は経済闘争としての農民運動に入って行くし、犬田卯、鑓田研一ら保守派は農民自治会を解消して新たに「全国農民芸術連盟」を組織して思想文学運動を継続して行くことになる。
『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)41pより
ということである。
 そして、経済闘争としての農民運動(小作料軽減運動等)に没頭していった渋谷定輔は「昭和三年ころから約十五年間に治安維持法や出版法違反やその他で十数回投獄され、国家権力に抵抗する姿勢を崩すことなく戦後ふたたび詩筆をとりもどした」(「農民詩史における『野良に叫ぶ』の位置」(『野良に叫ぶ 渋谷定輔詩集』、勁草書房)より)」と松永伍一は語っている。

2.機関誌『農民』
 一方話は相前後するが、渋谷定輔の『野良に叫ぶ』が発刊された約3ヶ月後の大正15年10月に犬田卯等は『農民文芸十六講』を出版したことになる訳だが、安藤氏の前掲書によれば
 『農民文芸十六講』という形で「研究会時代の研究結果の集大成」を果たした農民文学運動は「それと前後して、会員の数はいよいよ増し、また会員諸氏は単なる研究という範囲から一歩進んで、各自の制作――小説、評論、詩等を世間的に発表するようにな」る(「農民文芸会略史」――『農民』創刊号」)わけだが、この成立の過程で中枢部はプロレタリア文学とは一線を画し、反マルクス、反都市、反近代という性格を形成する。それは裏を返せば農民主義、農民中心主義という性格付を行ったことを意味する。しかし、まだまだ寄り集まり的性格を有しながら機関誌『農民』発行へと運動は進んでいく。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)41pより>
ということである。この機関誌『農民』の発行はほぼ実質犬田による農民文学運動の一つと言い換えても良さそうであり、犬田卯がリーダーとなって農民を啓蒙せんがために『農民』の発行は続けられていったと考えてもそれほど間違いではなさそうだ。
 因みに、機関誌『農民』等を発行母体によって区分けすると、
 第一期(1927,10~10,6) 『農民』(農民文芸会、編集者犬田卯) 9冊
 第二期(1928,8~28,9) 『農民』(農民自治会、編集者竹内愛国) 2冊
 第三期(1929,4~32,1) 『農民』(全国農民芸術連盟―農民自治文化連盟、編集者鑓田研一・犬田卯) 32冊
 第四期(1932,2~32,9) 『農本社会』(農本連盟、編集者河野康・森田重次郎) 7冊
 第五期(1932,11~33,9) 『農民』(農民作家同盟、編集者犬田卯) 8冊
のようになると安藤氏は前掲書において分析している。
 そして、この〝期〟が下るにつれてますます犬田卯は「プロレタリア文学とは一線を画し、反マルクス、反都市、反近代」の傾向を強め、さらには「反インテリ」も明確にしていったと、同じく前掲書の中で安藤氏は述べている。そしてついにこの機関誌は「三三年九月号で消え、農民文学運動はこの後、有馬頼寧の後援のもとファシズム協力の〝農民文学懇話会〟と姿を変え」ていった、とも。
 ただし、犬田卯自身はこの〝農民文学懇話会〟への参加は拒否し、持病のゼンソクの悪化もあって昭和10年7月に東京から引き上げて故郷牛久に戻り、屋敷を開墾しながら自給自足の生活をしたということでもある。

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