みちのくの山野草

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2866 賢治、家の光、犬田の相似性(#34)

2012-09-03 09:00:00 | 賢治・卯・家の光の相似性
【宮澤賢治年譜抜粋 大正15年6月】
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)>より

『農民芸術概論綱要』が書かれた時期
 現在、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)の年譜では『農民芸術概論綱要』が書かれた時期については上掲のようになっている。そこで私は以前、〝賢治、家の光、犬田の相似性(#32)〟において、
 この時期を〝六月〟としているのは何を根拠にしてそう決めているのだろうか…。
という疑問を呈したことがあった。
 ところが、筑摩の『校本全集』所収「宮澤賢治年譜」の作成者である堀尾青史が、このことに関する境忠一氏の質問に対して次のように答えていることをこの度知った。
 そこでは、まず境氏が
 大正十五年六月に、例の「農民芸術概論綱要」を書くわけですが、六月という日付には、具体的な根拠があるのでしょうか。
と質問し、対して堀尾は次のように答えていた。
 これも皆さんの推測と言うこともあるんですが、開墾や農事指導などの忙しさから解放されて、比較的余裕ができた月ですね。先ずこの辺で間違いなかろうということです。……☆
<『国文学第23巻2号』(學燈社)175pより>
…いいのかな…。私からすればこれではちょっと根拠が弱そうな気がする。あるいはまた、このような調子で筑摩の「宮澤賢治年譜」が書かれているともしするならば、他の項目だって同じようなことがあるのではなかろうかという不安が募ってくる。
はたしてその時期は大正15年の6月か
 そもそも、農民にとって6月は忙しさから解放されて比較的余裕ができる月とは言い難い、と地元にいる私にすれば思う。逆に、大正末期頃であれば6月は農家にとっては特に忙しい農繁期で、いわゆる「猫の手も借りたい」と謂われたほどの田植時ではなかっただろうか。それとも農家は忙しいが、賢治は忙しさから解放されたと堀尾はみているのだろうか。たしかに、昭和3年6月の折りの賢治の上京を考えればそれも一つの見方かもしれない。がもしそうだとするならば、羅須地人協会における賢治の活動は、農民を救わんとしてひたすらに行ったそれではなくなってしまうというジレンマが生ずる。賢治は農民には寄り添っていなかったということになりかねないからだ。
 また、『農民芸術概論綱要』は暇ができたから書けるという代物ではないはずで、賢治がいま書かねばならぬと思ったならばその時に書けたはず、という見方もできる。一般に優秀な人であればあるほど、忙しい時ほど沢山のいい仕事ができるはずだからである。まして賢治は超天才なのだからなおさらに。
 だからせいぜい現時点で言えることは、『農民芸術概論綱要』の「結論」の最後のところに
理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)16pより>
とあることから、
  『農民芸術概論綱要』は1926年(大正15年)に書かれた。
と考えられるということだけではなかろうか。そういう点はでたしかに〝大正十五年六月〟はもちろん否定できないが、もしかすると〝大正十五年十二月〟だって同様否定できないかもしれない。
 あるいはもしかすると、1926年(大正15年)にはまだ未完成であった可能性さえも否定し切れないとも思う。なぜならば、昭和2年1月31日付伊藤清一宛書簡には次のようなことも書かれてるからだ。
…(略)…第一あんまり地元で殊にさうでなくても只今の仕事が学校や役所へ姚(ママ)戦的でありますので今度また出ましては何としても不遜の譏を免れません。且つ正直を申せば私ももうそろそろ一科の学にまとまりを付けなければなりませんので…(略)…
<『校本宮澤賢治全集第十三六巻』(筑摩書房)241pより>
さて、この当時賢治が〝一科の学にまとまりを付けなければ〟ならぬものって一体何だったんだろうか。管見の私にはその有力な候補は『農民芸術概論綱要』しか思い付かない(それともこの賢治の言いぐさは講師依頼を断るための単なる口実だったのだろうか)。
時期等の再検証が必要なのでは
 そういえばそうだそうだ、『賢治とモリスの環境芸術』の中に
 賢治の作品では、『注文の多い料理店』『春と修羅』など、自らの責任で出版されたものは多くない。とくに「農民芸術概論」は、原稿も戦災で焼失、しかも「農民芸術概論綱要」、さらに「農民芸術の興隆」の章だけに講義用メモと思われる「書き込み」があった。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社)139pより>
という部分があった。
 ということは、「農民芸術概論」の原稿だけは昭和20年8月10日の花巻空襲で焼けて無くなってしまったのだが『農民芸術概論綱要』など、他の部分は焼け残ったということなのだろうか。そしてまた、『農民芸術概論綱要』、さらに「農民芸術の興隆」の章だけに賢治〝手書き〟の講義用メモがあったということなのだろうか。それとも〝しかも「農民芸術概論綱要」…〟と大内氏は書いているから、これらも一緒に焼失してしまったということなのだろうか…私の古ぼけた頭の中はますます混迷を深めるばかりだ。
 一方で私には、『農民文芸十六講』の出版が大正15年10月であることや、例の面会謝絶事件の起こった時期が同年の7月であることに鑑みれば、『農民芸術概論綱要』が書かれた時期が大正15年のはたして〝何月か〟、あるいはそれどころかはたして大正15年内なのか、ということは微妙でなおかつ重要な問題を孕んでいると思える。したがって、『農民芸術概論綱要』が書かれた時期等に関してはさらなる再検証がなされなければならぬのではなかろうか。


 という訳で、私はまたしても同じ轍を踏んでしまった。前回私は「さて、早く元の道に戻って犬田卯のこと等を述べようと思っていたのだが、今回もそこまで辿りつかないでしまった。次回こそは犬田卯に戻りたいのだが…」と宣言しておきながら、結局今回も戻らなかったからである。

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