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気の向くままに

山、花、人生を讃える

小さな魂と太陽の話

2009年06月08日 | 読書
≪本からの引用≫

かつて、自らが光であることを知っている魂があった。
「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ!」。

だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても体験にかえることはできない。この魂が生まれた領域では、光しかなかった。どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたしの神々しい光を受けて輝いていた。

そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。
偉大な光の中では、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない(表現できない)。

その小さな魂は自分自身を知りたくてたまらなくなった。あまりに知りたがるので、或る日、わたしは言った。
「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか」
「どうすればいいのですか、神様? わたしは何でもします!」
「お前は、わたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。
「そうして、闇を求めなければならない」
「闇というのはなんですか、聖なる方?」と小さな魂は尋ねた。
「それはお前ではないものだ」とわたしは答え、小さな魂は理解した。

そこで、小さな魂は全体から離れ、別の領域に行った。
その領域ではあらゆる闇を体験することができた。そして、闇を体験した。

その闇のさなかで、魂は叫んだ。
「父よ、父よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか?」
例えば、あなたがたが暗闇にいるときのように。

だが、わたしは一度もあなた方を見捨てたことはない。常にそばにいて、本当は何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、我が家に呼び戻そうとしている。

だから、闇の中の光になりなさい。そして、闇の中にいることを呪ってはいけない。また、自分が何者であるかを忘れてはいけない。もっとも大きな試練が、もっとも偉大な勝利になる可能性がある。

このたとえ話をしたのは、どうして今のような世界になったのかを理解させるため、そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界が変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。


以上は、非常に感動させられた話なので、ニール・ドナルド・ウオッシュ著「神との対話(1)」から、ほぼそのまま抜粋させてもらったものです。

わたしたちがなぜ現象世界に生まれてきているのかということが、「神真理を告げ給う」の中で語られていることと、好一対をなしていて、非常に面白いと思う。

この本の中では、アダムとイブが蛇の知恵に騙されてリンゴの木の実を食し、楽園追放されたことを、「あれは、人類最初の祝福だった」ということになっているのですが、「神真理を告げ給う」でも、地上天国建設という神の計画に入っていることになっており、「迷いと見えるものは、実は悟りの道程である(煩悩即菩提)」と書かれているのを思い出します。

雅宣先生もブログの中で、その楽園追放物語について、「このように解釈することもできるのである」と書いておられ、その部分をワードに保存していたつもりなので探してみましたが、見つけることができませんでした。また、探してみます。 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。