常識について思うこと

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無意識にある神道と自分

2008年07月24日 | 宗教

日本は無宗教の人々が多いと思います。もちろん、特定の宗教を信じているという人々がいるのも事実ですが、世界的に見て、何の宗教も持たないという人々の比率は圧倒的に多いと言えるでしょう。

ただし、日本には固有の宗教、神道があるという見方もあります。そう考えた場合、大多数の人々が神道信者であると言うことができるかもしれませんし、それはそれで間違いではないでしょう。そして実は、この神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透していると言ってよいかもしれないという状況にあるのも事実です。

初詣、観光、諸々の祈願のために、神社に参拝するということは、何も特別なことではありません。私たち日本人にとって、神社にお参りするということは、日常に溶け込んだ至極自然な行動のように思いますし、場所によっては、自分たち用に神棚を設置しているところもあるくらいです。

しかし、神社はけっして宗教と無関係ではありません。

教会やお寺というと、○○教やら○○宗といった宗教名を冠していることが多いため、何となく自然と宗教をイメージされる方々も多いと思います。しかし、神社については、あまり宗教を意識されない方々が多いのではないでしょうか。実はこれが、私が「神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透している」と言っている根拠でもあります。

基本的に、神社は宗教法人によって運営されています。知っている人からすれば、至極当たり前のことですが、ほとんど意識されていない方々からすると、少々戸惑われるかもしれません。神社を運営する宗教法人は、いろいろとありますが、なかでも最も大きいものは、日本全国約8万社の神社を包括するという神社本庁です。一般的に、伊勢神宮が神社の頂点とされているのには、この神社本庁が同神宮を本宗と仰いでいることとも関係があります。神社を管轄している宗教法人のうち、神社本庁に属さないものもありますが、基本的には何らかの宗教法人によって、運営されているというのが神社の実体です。ご存知なかった方にしてみても、神社がきちんと存続するためには、それらを管理・運営する主体が必要であることは確かなわけで、当たり前といえば当たり前の話です。

私は、神社の管理・運営主体として、宗教法人が必要であったろうことについては、そのとおりだろうと思いますし、それが宗教法人に限らず、時代を経ながら、永きに渡って、いろいろな神話を受け継ぎつつ、神社を存続させてきた人々がいてくれたことに感謝したいと思います。そしてまた、それが神道というかたちで、ある種の宗教の体を成しつつ、日本人独特の精神や文化を育ててきたことに、大変な意味があっただろうし、そのことが多くの日本人を指して神道信者と言わせるほどの根拠にもなり得ると考えています。

ただし、ここで指摘しておきたいポイントは、神社にお賽銭を投げるときに、ほとんどの人々が、そうした「宗教法人」の存在を意識していないであろうということです。特定の「宗教法人」に対して、無意識かつ自然にお賽銭を投げていることは、それだけ根深く、その宗教が定着しているということではないかと思うのです。つまり、多くの日本人にとって、神道という宗教が、意識するまでもないくらい身近にあるということでもあります。

私は、このこと自体、それほど悪いことであるとは思いません。特別な勧誘や信仰の強要をせず、黙々と社を構えて、信じたい者にはお賽銭を投げさせるというかたちをとりながら、これまで脈々と受け継がれてきた神社組織や神道的な考え方には、親しみを覚えますし、ある種の懐の深さすら感じます。

しかし一方で、お賽銭を投げる側の人間として、そのお賽銭が、どのような人々の懐に入るのかについて、きちんと考えることも大切であるように思います。それは、神社という存在が、私たち日本人にとって、あまりにも自然であるが故に、普段意識しないことではありますが、そうであるからこそ、きちんと考えることに大切さがあるように思うのです。

そこで考えるべきは、伊勢神宮を頂点と仰いで、日本の大部分の神社を包括するという神社本庁のことです。ブログ内でも、何度か触れていますが、日本建国の歴史は謎だらけです(「日本建国史の再考」、「東国の神々へのご挨拶」参照)。神社本庁が本宗とする伊勢神宮について、それを頂点とする構造が本当に正しいかについては、議論の余地がありますし、そこに問題意識を持つこと自体、お賽銭を投げる人間としての立場からすると、非常に大切なことではないかと思うのです。

ただし、これを考え始めるとキリがありません。結局、そうしたことがはっきり分からないまま、私自身、神様たちへのご挨拶という意味で、神社にお参りはしますし、お賽銭を投げることもあります。

そして、そんなことを考えながら、結局、行き着く結論は、人はそれぞれ自分自身を信じるしかないのだろうということだったり、単純に神社参りを楽しめばいいのだろうということだったりするのでした(「「自分教」の神社」参照)。

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