常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

認めざるを得ない強い二人

2008年07月29日 | ヒーロー&アニメ

「機動戦士ガンダムSEED」を初見しました。世代的な問題かもしれませんが、「機動戦士ガンダム」と言えば、アムロやシャアたちが繰り広げる一年戦争の「ガンダム」が全てという先入観がありました。ずいぶん前から「機動戦士ガンダムSEED」を見るように薦められたことがあったのですが、何となく「ガンダムと言えばアムロ・レイ」的な思考から抜け出せず、なかなか見るに至らなかったのです。

そして今回、ようやく「機動戦士ガンダムSEED」を見ました。戦争を題材にしているため、いろいろと鬱の要素もありましたが、主人公のキラ・ヤマトが求め続けた真の強さに共感させられ、またそれを命懸けで支えたヒロイン、ラクス・クラインの強さに魅せられてしまいました。正直、この二人の強さは認めざるを得ません。

ここで重要なポイントは、まず強さとは何かということでしょう。一般的に、強さとは力であると理解されがちですが、私は、けっしてそれだけではないと思います。

「力を以って力を制する」というルールのなかでは、相手を打ち負かすことだけが、自分が生き残る道になります。そして、このことは「殴られたら殴り返す」、「撃たれたら撃ち返す」、「殺されたら殺し返す」という負の連鎖を生み出します。この負の連鎖は、さらに大きな悲しみと憎しみの輪を広げ、「殴り合う」、「撃ち合う」、「殺し合う」だけの世界を加速化させていきます。

しかし私は、これからの時代において、単に他者を打ち負かす力を持つことだけが強さではないという考え方が、より重要になってくるのではないかと思っています。もちろん、相手を打ち負かすだけの力も、ある種の強さであるとは言えるでしょう。それは否定し得ません。しかし、それだけでは片手落ちです。真の強さとは、悲しみや憎しみを内に秘めて、それらを受け入れていく心の強さを伴っているのであり、真に守るための戦いというのは、いかに負の連鎖を終わらせるかという戦いであると思うのです。

戦争という過酷な状況下にあって、負の連鎖を断ち切りたいという思いを抱えつつ、ギリギリの状態をくぐり抜けながら、主人公のキラ・ヤマトは、守るために戦うことの大切さを知ります。そして、その戦いは単に「力を以って力を制する」という戦争のルールすら変えていくという、とてつもなく高度で別次元の戦いに発展していくのです。

同作品のなかで、この難しい戦いを実践していくキラ・ヤマトは、真に強い男だとつくづく思いました。そしてまた、そのキラの内面の強さを見抜き、国家反逆罪という大罪を犯しつつも、自らの命を賭して、彼に最強のモビルスーツを与えたラクス・クラインは、その強い男に相応しい強い女性であるとも思いました。

「思いだけでも、力だけでもダメなのです。だから・・・」

キラにモビルスーツを与える際に、ラクスが放ったこの言葉は、キラの心の強さを理解しているが故に生まれたものなのでしょう。相手を打ち負かすだけの力も、ある種の強さではありますが、その強さは心の強さを伴っていなければいけないことを、よく知っているのです。そして、このモビルスーツを与えられたキラは、戦場で相手を殺すことをせず、常に相手を「戦闘不能」な状態にさせるという戦い方に徹していきます。

これこそが、真の強さであり、真に守るための戦いではないかと思います。

「機動戦士ガンダムSEED」が放映されてから、だいぶ経ってからの視聴にはなりましたが、その他にも、人類の夢と遺伝子操作の関係、「エリート」とは何かといったテーマなども含まれているように感じました。これらのテーマについては、また長くなるので割愛しますが、いずれにせよ、なかなか見応えのある作品でした。

最後に一点、同作品のなかで一人二役(フレイ役、バジルール役)をされている声優の桑島法子さんには、感嘆させられました。物語が始まって間もない頃、「フレイ」という女性が出てきており、その声優さんが、もの凄い演技をされているにも関わらず、エンディングで「フレイ」のキャスト表示がなかったので、少々不思議な気がしていたのですが、「バジルール」というもう一人のメインキャラクターを演じていたからなのでしょう。時折、「フレイ」と「バジルール」が直接会話をするシーンなどもありましたが、同一人物であることなどまったく分からないほど、極めて自然な感じで、当たり前のことながら、あらためて、声優さんのお仕事はすごいと思ったのでした。

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