常識について思うこと

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UFOは存在する

2008年07月05日 | 科学

「UFOは存在する」などと言うと、眉をひそめる人も多いかもしれません。UFOとは、言うまでもなく「未確認飛行物体」のことです。

先日、イギリスの国防省がUFOの本格調査に乗り出すという報道を耳にしました。イギリスでは、過去何度かUFOについての調査報告がなされているようです。インターネットで検索をすると、「イギリス国防省がUFOの存在を否定」といった記事を見かけます。その論拠としては、「地球外生命の存在を裏付ける証拠」はなく、「UFO目撃は自然現象による錯覚」であるということのようなのですが、目撃情報が後を絶たず、「自然現象による錯覚」だけでは説明できない事例もあるようです。

私は、こうした事情から、UFOは存在すると思います。ただし、ここで言う「UFOは存在する」というのは、そうした飛行物体が実際に存在するという意味ではありません。少なくとも「確認されていないものがある」という意味において、未確認飛行物体たるUFOは存在すると言えると思うのです。

そもそも、「地球外生命の存在を裏付ける証拠がない」=「UFOの存在否定」というロジックが、決定的に間違っている可能性があると思います。もし、未確認飛行物体たるUFOを否定するのであれば、「地球外生命が存在しないことを裏付ける証拠」が必要になります。報道にあるように「存在を裏付ける証拠がない」ということは、「存在を確認できない」ということに過ぎず、説明不能な目撃情報がある以上、結局は「未確認である」ということです。

ただし、「確認できていない」=「存在しない」と決めつけるのも、個々人の自由であろうと思います。当たり前のことながら、人は自らが信じるものしか信じませんので、「確認できていない以上、それは存在しないと考える」という信念を変えることはできません。しかし、そうした個々人の自由とは別に、「UFOの存在を確認できていない」=「UFOは存在するかもしれない」と考える人々を嘲笑したり、非難したりする態度や行為には、まったく違った意味での責任が生じてくることには注意が必要です。つまり、もしそのような態度で臨む場合、自分にはけっして誤りがあってはらならないし、その人にはそれだけの自信と責任が求められるだけでなく、万が一、自分が間違っていた場合には、それに対して、きちんとしたケジメが求められるということです。

一方で「UFOは存在する」と言うと、その科学的根拠を求める立場もあろうかと思います。しかし、そうした「科学的根拠」という言葉を盾にとって、あたかも「科学」という御旗があるかのように振舞うことにも注意が必要です。

何故ならば、科学というのは、常に未知との戦いのうえで築き上げられてきたものだからです。

未知だったものを明らかにし、それを体系化させた学問として整理して、学生たちに教えていくことも、科学者のひとつの役割だろうと思います。それは既知を整理して、後進に伝えていくという仕事です。しかし、科学者の仕事は、それだけではありません。最先端を探求していく真の科学者は、常に未知と向き合い、それと格闘していかなければならないのです。したがって、「UFOは存在する」という科学的根拠を求めるだけの人々というのは、科学の本質を半分忘れている可能性があるわけです。「確認できていない」=「存在するかもしれない」というロジックが科学的ではないと嘲笑したり、非難したりする行為は、過去において、未知との格闘をしてきた偉大なる科学者たちの功績にあぐらをかき、単に科学の「既知の整理」という部分のみを理解しているだけで、「未知との格闘」という側面を見落としている可能性があるという点は、大変重要です。

ただ、そうは言っても「UFOは存在する」と主張する方々の議論のなかに、大きな問題があるのも事実でしょう。私が言う「UFOは存在する」という議論は、本質的にそうした方々の主張とは、異なっているかもしれません。それらを勘案して、何が真実であるかを見極めるということは、大変難しい作業であると思います。

何が真実であるかは、まだ分かりません。しかし、私としては、そろそろ「UFOは存在するか、しないか」という議論ではなく、むしろ「UFOとは何か」という話に論点が移っても良いのではないかとも思っています。この問題は、もう少し見守っていきましょう。

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