常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

事業の本質と存在価値

2008年07月30日 | 会社

社会は、行き詰りつつあると思います。私自身、そうした問題が起こるであろうことが予測できなかったとは思いません。しかし最近、社会の仕組みに起因するような大きな問題が、私たちの生活に直結したダメージを及ぼす事象が顕著になり、メディアなどでも大きく取り上げられるようになったため、多少、現実味をもって、そうした問題について議論できるようになったような気がします。そして一方で、これから先、社会に対する不安感は、ますます増していくことになるのではないかと考えます。

けれども、当たり前のことながら、私ごときが「大きな問題に真剣に向き合え」と叫んだところで、何も始まりません。差し迫った危機感もないのに、心の底から解決策を見出そうとしないのは、至極当然のことでもあります。逆の言い方をすれば、いろいろと大きな問題がありながらも、それでも人々の生活が、それなりに成り立っているというのが、今日の状態なのでしょう。もちろん、困った問題が山積していることも事実ですし、困窮している方々が大勢いらっしゃることも間違いないと思います。しかし、それでも世の大多数の人々にとって、これまでの自分たちの生活や信じてきた価値観をガラリと変えるほど、死に物狂いで解決策を見出そうとする必要がないというのも、また事実なのではないかと思うのです。そうである以上、今日の諸問題が、社会的・世界的な問題であると言ったところで、それらはそれほど深刻ではないと言うことができるのかもしれません。

しかし私は、それはあくまでも現在の話であって、早晩、社会の大多数の人々が、死に物狂いで解決策を見出さなければならないような状況に陥るのではないかと考えています。世の中全体が、実際に良からぬ方向に動き出し、あらゆる分野での大きな問題が顕在化したり、深刻化したりしている現状において、何もせずとも明るい未来が待っているなどとは、到底思えません。

今の私にできることは、小さいながらも警鐘を鳴らしつつ、自分自身で実行できるアクションを淡々と進めていくことです。そのなかのひとつが、最近の会社設立でした。

私の会社は、社会的・世界的に深刻化している諸問題を解決するための第一歩として、入り口にある事業を進める実体とすべく立ち上げたものです。口先だけでも、他者に頼ってばかりでも、何も変わらないだろうという思いから、自らがきちんと実践していくためのかたちが必要だろうと考えたのです。

ところで、わりと公的な場所で、会社設立や事業立ち上げといった言葉を使うと、なかには眉を顰める方々もいらっしゃるようです。そういう方々からすると、会社や事業というのは、あくまでも個人の金儲けのために存在する卑しいものであり、社会全体を論じるような公的な場所に出すべき類の話ではないという考え方が、頭にこびりついているような印象を受けます。たしかに、それはひとつの側面としては当たっています。とくに、近年のように、金融手法を駆使した結果、実体経済とかけ離れて成長している事業が、成功事例と評価されるような社会的風潮があるなか、個人の私的利益ばかりを追求していると思われる事業が、多く見受けられるという点は、否定できないと思います。

しかし、そうした視点でのみ、私が考えるような事業の全てを説明しようとするのは、極めて不十分であり、また致命的な欠陥を有していると言わざるを得ません。むしろ、そういう考え方に支配されている方々の場合、自分たちが関わっている会社や事業が、金儲けに縛られており、そうした体験に基づいた先入観を通じて、私が考えるような事業を歪めて見ている可能性があります。つまり、事業は卑しいものと思っている方々は、自分自身が卑しいと思われても仕方ないかたちで事業をしている、あるいは関わっている可能性があるということです。

ここであらためて、整理したいと思います。

会社というのは営利目的で動いており、通常、会社が行う事業は、金儲けのためにあるものというのは、ごく一般的な考え方であり、それは正しいのだろうと思います。実際、成功している事業というのは、金儲けにも成功しているわけですし、金儲けをしたい人々が事業を興しているというのは事実でしょう。

しかし、それが全てではないとも思います。少なくとも、私が考えるような事業は、社会的・世界的な諸問題をいかに解決するかという意識から発しているものです。事業が営利目的で展開されるのは、そうした社会的・世界的諸問題を解決するために、その事業が成立しなければならず、それを成り立たせるための資金確保という意味で、金儲けが必要だからであると考えます。

これらをきちんと整理しなおすと、結局のところ、事業とは「社会のため」と「金儲けのため」を両立させることで、成り立つものなのだということでしょう。そして、よく考えれば、これは実に当たり前のことでもあります。

一般的に、「事業=金儲け」という図式が強調されているとしても、金儲けが成功するためには、きちんとお金を払ってくれる人々(利用者や消費者)がいるわけで、そこには社会ニーズが存在するのであり、社会が困っているということでもあります。即ち、金儲けができる事業というものは、困っている社会のために存在するということでもあるということです。これは「個人的な卑しい金儲け」とは、全く性格を異にするものであります。

これとは別に、時折「国家事業」という言葉を使う方々もいらっしゃいます。そこには、「国家」を冠ることで、「個人的な卑しい金儲け」との区別をしようとされる意図も見え隠れしますが、所詮「国家事業」も事業の一形態に過ぎません。「国家事業」にしてみても、当然のことながら、採算性を度外視するわけにはいかないのです。国家の責任ある方々が明確なビジョンを持って実行したときには、それは自ずと採算性が取れる「国家事業」として成立するわけですが、事業の本質として、金儲けをしなければならないという点は、等しく事業という意味において、その主体が個人だろうが、国家だろうが全く変わらないと言うことができるでしょう。

これらのことを整理しながら思うことは、私自身、特段、事業を成功させたいという強い願望があるわけではありませんし、そうした願望に基づいて会社を立ち上げたわけでもないということです。事業がうまくいかないということは、私が危惧しているような、社会的・世界的な危機が訪れないということなのでしょう。それはつまり、これからも世の中が平和であり続けるということなのだと思います。そうだとしたら、それはそれで、とても良いことです。

ポイントは、これからの世界において、私が考えるような事業が必要とされるのかどうかということだけです。その結果は、時間の経過とともに、自ずと明らかになってくるのでしょう。

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