「そんな謝罪では会社が危ない」 田中辰巳・著、文春文庫、2006年10月10日
2年前に読んだ本書について、これまで2回、ブログに取り上げてきた(1回目、2回目)。他人のことだと思えば何でも言えてしまうが、まさかもっと身近なところで本書が役立ちそうな事態が進展している。
p.30 根底に誤りがあるから、複数の過ちを犯してしまうのである。
p.35 差別とは『した側の意思の有無』ではなく、『された側がどう感じたか』で判断されるべきものである。
p.55 謝罪の言葉は相手の心に響かなければ意味がない。野球にたとえるなら、ド真ん中のストレートでなければならない。
「世間体をお騒がせし」とか「遺憾」とか「道義的責任」という言葉は、はぐらかして“なんとか体面を保とうとする意図”がみえみえなのだ。
p.92 絶対的な権力者が去って、はじめて謝罪の言葉が素直に出るようになった
p.166 (罪を償うということは)世間を驚かせて「そこまでしなくても・・・・・」と思わせたら成功だ。
p.170 謝罪には次に示す四つのフェーズがあると解説している。『癒す』『腑に落ちる』『許される』『忘れる』の四つだ。これがそろってはじめて謝罪は完結するのである。
p.172 最低でも三年間、月命日を欠かさないくらいの覚悟が必要だが・・・・・。
p.175 手術を恐れる患者は本当の症状を隠し、落胆したくない家族は希望的観測をまじえて話すものだ。問題を起こした現場もまったく同様に、正確な報告は上げてこないと覚悟しておく必要がある。
p.178 企業や個人が危機管理とりわけ謝罪に取り組む場面で、私は後者の『反省』が不可欠だと常に思っている。
(※後者とは、「自分の過去の行為について考察し、批判的な評価を加えること」)
p.181 後悔の的がはずれていると、再発防止策も奇妙なものになってしまう。
p.181 懺悔の不十分な謝罪が受け入れられない
p.183-4 『贖罪』という言葉も宗教的ではあるが、「犠牲や代償を捧げることによって罪過をあがなうこと」と広辞苑にある。しかし、私は「まずは犠牲を捧げて、足りなければ代償を捧げる」と勝手な解釈を加えて、企業のトップに伝えている。
犠牲とは痛みを伴ったものでなくてはならず、その痛みは被害者の痛みと同等でなくてはならないことがわかる。
p.199 ケジメとか道義的な意味での辞任では、甘いという印象が残ってしまう
p.209 犯した罪が同じでも、だれが犯したかによって、批判の程度は変わってくる
p.215 「道義的責任」は、実質的な責任を認めていないのだから、処分とは言いがたい。
「給与の自主返納」は自主的な行為だから処分とは呼ばない。
仮に、医療従事者側の誤りで人命が失われたとしよう。それが故意でないとはいえ、ずさんというか不注意な判断や行為によって発生したと言われても仕方がないとしたら、業務上過失致死ともいえるのではないか。大切な家族を失い、医療従事者の対応が義務的か事務的だと思うのなら、遺族は医療従事者側を殺人者と同様に思うかもしれない。
年の瀬を迎えて、さびしい年越しを迎える遺族に対し、そういう状況を推察できず、まさか忘年会だクリスマスだとはしゃいでいる医療従事者は、反省も謝罪もできていないということではないかと思う。そのツケは、重大な医療事故の再発としてやってくるように思われる。
2年前に読んだ本書について、これまで2回、ブログに取り上げてきた(1回目、2回目)。他人のことだと思えば何でも言えてしまうが、まさかもっと身近なところで本書が役立ちそうな事態が進展している。
p.30 根底に誤りがあるから、複数の過ちを犯してしまうのである。
p.35 差別とは『した側の意思の有無』ではなく、『された側がどう感じたか』で判断されるべきものである。
p.55 謝罪の言葉は相手の心に響かなければ意味がない。野球にたとえるなら、ド真ん中のストレートでなければならない。
「世間体をお騒がせし」とか「遺憾」とか「道義的責任」という言葉は、はぐらかして“なんとか体面を保とうとする意図”がみえみえなのだ。
p.92 絶対的な権力者が去って、はじめて謝罪の言葉が素直に出るようになった
p.166 (罪を償うということは)世間を驚かせて「そこまでしなくても・・・・・」と思わせたら成功だ。
p.170 謝罪には次に示す四つのフェーズがあると解説している。『癒す』『腑に落ちる』『許される』『忘れる』の四つだ。これがそろってはじめて謝罪は完結するのである。
p.172 最低でも三年間、月命日を欠かさないくらいの覚悟が必要だが・・・・・。
p.175 手術を恐れる患者は本当の症状を隠し、落胆したくない家族は希望的観測をまじえて話すものだ。問題を起こした現場もまったく同様に、正確な報告は上げてこないと覚悟しておく必要がある。
p.178 企業や個人が危機管理とりわけ謝罪に取り組む場面で、私は後者の『反省』が不可欠だと常に思っている。
(※後者とは、「自分の過去の行為について考察し、批判的な評価を加えること」)
p.181 後悔の的がはずれていると、再発防止策も奇妙なものになってしまう。
p.181 懺悔の不十分な謝罪が受け入れられない
p.183-4 『贖罪』という言葉も宗教的ではあるが、「犠牲や代償を捧げることによって罪過をあがなうこと」と広辞苑にある。しかし、私は「まずは犠牲を捧げて、足りなければ代償を捧げる」と勝手な解釈を加えて、企業のトップに伝えている。
犠牲とは痛みを伴ったものでなくてはならず、その痛みは被害者の痛みと同等でなくてはならないことがわかる。
p.199 ケジメとか道義的な意味での辞任では、甘いという印象が残ってしまう
p.209 犯した罪が同じでも、だれが犯したかによって、批判の程度は変わってくる
p.215 「道義的責任」は、実質的な責任を認めていないのだから、処分とは言いがたい。
「給与の自主返納」は自主的な行為だから処分とは呼ばない。
仮に、医療従事者側の誤りで人命が失われたとしよう。それが故意でないとはいえ、ずさんというか不注意な判断や行為によって発生したと言われても仕方がないとしたら、業務上過失致死ともいえるのではないか。大切な家族を失い、医療従事者の対応が義務的か事務的だと思うのなら、遺族は医療従事者側を殺人者と同様に思うかもしれない。
年の瀬を迎えて、さびしい年越しを迎える遺族に対し、そういう状況を推察できず、まさか忘年会だクリスマスだとはしゃいでいる医療従事者は、反省も謝罪もできていないということではないかと思う。そのツケは、重大な医療事故の再発としてやってくるように思われる。