「死をおそれない生き方」 桜井章一・著、主婦の友社、2012年5月20日
p.22-3 元来、私はあまり喪失感といったものを感じない質なんです。それは“終わりは始まり”という感覚が強いからです。失ったり、手離したりすることが“新たな始まりだ”という感覚がある。だから喪失感を大きくせずに、そのまま受け流すことができたのだと思います。
終わった時に「あ、また何かが始まっていくんだな」という感覚を持てばいい。
p.25 人間なんてやり残して死んでいくものだと私は思っています。完成されて死んでいくわけじゃない。不完全なものを置いてこの世を去っていくのですから、みんなやり残したことがあって当たり前です。“生”に執着しすぎるから、やり残したことにもしがみついてしまうことになるんです。
p.31 「法律に触れていないんだからいいでしょ」というような判断基準を持った人間は下の下です。
p.35 自分を大きく見せたり、よく見せたりすれば一時の高揚感は味わえるかもしれません。でもそんなことをするから苦しみや悩みが生まれてくるんです。“等身大”であるのが、本当は一番楽なんです。
p.53 私は選択したことによってマイナスなことが起きたら「これは自分を成長させてくれるものだ」と思ってやってきました。
p.61 素の自分で強く生きていくために一番必要なのは“素直と勇気”なんです。
p.62 「上手にできるかな?」とか「失敗したらどうしよう?」とか「人からよく見られたい」とか、そういう思いが私にはないんです。そんなのまったく気にしていない。他人からどう思われようが「知ったこっちゃねぇ」とすら思っています。
p.63 「人生はどうなるか分からない」という心構えがあれば、“不測の事態”に対処できるようになります。
人生はどうなるか分からないのですから、マニュアルなんかつくったってその通りに行くわけがありません。だったらそんなマニュアルは必要とせず、その場、その場で臨機応変に対処した方がうまく運びますし、結果として人間としても成長できるのだと思います。
p.65 私の中にあるのは「目標という“土”から何が生えてくるんだろう?」という感覚です。
目標を“幹”にしてしまうと、「真っ直ぐに伸びなくちゃいけない。枝もたくさん伸ばさなくちゃいけない」と思ってしまいます。
p.67 ほとんどの人は“格好つけよう”とするから格好悪くなってしまうんです。本当の格好よさとは“自然に合わせる”ところから生まれるものなんです。
p.71 陰気な人っていうのはおとなしい人が多いですが、陰気だからおとなしいのではなく、暗くて見えないから動くに動けず、それがまわりから見るとおとなしく見えるだけなんです。道場生に動きを止めてしまっている陰気な人間がいたら、まず動くことを教えます。明るくしてから動くんじゃなくて、まず“動いてみろ”と言うんです。
p.71-2 “動く”ということに気付かせるにはまず、心を開かせることです。心を閉じれば誰だって暗くなってしまいます。
ただ、心をオープンにさせようとすると、みんな最初は恥ずかしがっちゃうんですね。本当の自分を見られたくないんです。自分の悪いところを見られるのが嫌だから心をなかなか開けない。でも、誰にでもいいところ、悪いところはあるわけですから、恥ずかしがる必要なんてまったくないんです。
p.79 人間は誰でも失敗します。成功ばかり、なんていう人はこの世にいません。であるならば「ダメで元々」と思って等身大の自分で勝負する。「死にゃーしないさ」の心意気があれば少なくとも今までの緊張からは解放されるでしょう。
p.86 トラブルから逃げていたら人間は成長しません。人生は思い通りにいかなくて当たり前です。要はトラブルがあって当たり前なんです。なのにトラブルから逃げていては、人生が先に進んでいかないじゃないですか。
p.87 自分を救うことができるのは、自分だけなんです。
p.88 とりあえず“最初の一歩”をまずは踏み出すことです。それをしないで「困った、困った」と言っている人が多いんです。やらないから不安がどんどん大きくなって、その不安に押しつぶされそうになってしまうわけでしょ。だったら一歩踏み出せばいい。一歩踏み出せば、一歩ゴールに近づいたということ。何もしないより、そっちの方がよっぽどいいじゃないですか。
p.92 ギリギリまで見守るというのは、ある意味忍耐力を要します。ギリギリを見極める能力も求められるでしょう。
“見守る”と“守る”は違います。“守る”感覚だと子どもの周囲をガチガチに固めて何も寄せつけないようなことになってしまいます。
p.116 いつ、どんな時でも、弱い人、困った人たちの方へ気持ちがいってなければやさしくなんてなれません。
p.127 尊敬している人などいなくていいんです。
“尊敬する”ということは、それだけでもうすでに囚われてしまっているわけです。洗脳されちゃうんですね。その人のやることなら「何でもいい」みたいになっちゃう。
もし「いいな」と思う人物がいるのだとしたら、尊敬ではなく好き、大好きくらいに抑えておいた方がいいでしょうね。
p.137 クレームをつけて、相手から謝罪されれば「私の意見が正しかった」となります。クレーマーはその満足感を味わいたいだけ、人を従わせたいだけなんです。クレーマーは「自分が正しい」と思っていますから、間違ったことをしてもそれに気付くことはありません。
p.141 「客に対して媚だけは売るな。媚を売って銭をもらおうなんてこんな卑しいことはない。その代わり、お客さんをひとりの人間として大切にしろ」
p.141 差し障りのあることって、結局物事の本質を突いている。
p.144 私が昔からよく言っている言葉に「不調こそ我が実力」というものがあります。好調時ではなく、不調な時こそ、その人の真の実力が試されるんです。
p.161 「悪いことをしなければ善人なんだ。法律さえ犯さなければいいんだ」というような考えって多かれ少なかれ誰でも持ってるんじゃないですか。“善し悪し”で物事を見るってことは、結局自分の都合でしか物事を捉えていないということです。多くの人が持っている“善し悪し”というのは、本当の意味での“善し悪し”では決してないんです。
p.174 私の中には“美”という感覚はあまりなく、その代わりに“鮮やか”という気持ちがあります。鮮やかというのは、人間一人ひとりが持っている“色”であり“味”ですね。
p.175-6 自分の味を忘れて「長生きしたい」なんて思うから死が怖いという気持ちが増幅するんじゃないですか? 死というものは誰にでも訪れるもので、怖いものでもおそろしいものでもないと思います。
p.22-3 元来、私はあまり喪失感といったものを感じない質なんです。それは“終わりは始まり”という感覚が強いからです。失ったり、手離したりすることが“新たな始まりだ”という感覚がある。だから喪失感を大きくせずに、そのまま受け流すことができたのだと思います。
終わった時に「あ、また何かが始まっていくんだな」という感覚を持てばいい。
p.25 人間なんてやり残して死んでいくものだと私は思っています。完成されて死んでいくわけじゃない。不完全なものを置いてこの世を去っていくのですから、みんなやり残したことがあって当たり前です。“生”に執着しすぎるから、やり残したことにもしがみついてしまうことになるんです。
p.31 「法律に触れていないんだからいいでしょ」というような判断基準を持った人間は下の下です。
p.35 自分を大きく見せたり、よく見せたりすれば一時の高揚感は味わえるかもしれません。でもそんなことをするから苦しみや悩みが生まれてくるんです。“等身大”であるのが、本当は一番楽なんです。
p.53 私は選択したことによってマイナスなことが起きたら「これは自分を成長させてくれるものだ」と思ってやってきました。
p.61 素の自分で強く生きていくために一番必要なのは“素直と勇気”なんです。
p.62 「上手にできるかな?」とか「失敗したらどうしよう?」とか「人からよく見られたい」とか、そういう思いが私にはないんです。そんなのまったく気にしていない。他人からどう思われようが「知ったこっちゃねぇ」とすら思っています。
p.63 「人生はどうなるか分からない」という心構えがあれば、“不測の事態”に対処できるようになります。
人生はどうなるか分からないのですから、マニュアルなんかつくったってその通りに行くわけがありません。だったらそんなマニュアルは必要とせず、その場、その場で臨機応変に対処した方がうまく運びますし、結果として人間としても成長できるのだと思います。
p.65 私の中にあるのは「目標という“土”から何が生えてくるんだろう?」という感覚です。
目標を“幹”にしてしまうと、「真っ直ぐに伸びなくちゃいけない。枝もたくさん伸ばさなくちゃいけない」と思ってしまいます。
p.67 ほとんどの人は“格好つけよう”とするから格好悪くなってしまうんです。本当の格好よさとは“自然に合わせる”ところから生まれるものなんです。
p.71 陰気な人っていうのはおとなしい人が多いですが、陰気だからおとなしいのではなく、暗くて見えないから動くに動けず、それがまわりから見るとおとなしく見えるだけなんです。道場生に動きを止めてしまっている陰気な人間がいたら、まず動くことを教えます。明るくしてから動くんじゃなくて、まず“動いてみろ”と言うんです。
p.71-2 “動く”ということに気付かせるにはまず、心を開かせることです。心を閉じれば誰だって暗くなってしまいます。
ただ、心をオープンにさせようとすると、みんな最初は恥ずかしがっちゃうんですね。本当の自分を見られたくないんです。自分の悪いところを見られるのが嫌だから心をなかなか開けない。でも、誰にでもいいところ、悪いところはあるわけですから、恥ずかしがる必要なんてまったくないんです。
p.79 人間は誰でも失敗します。成功ばかり、なんていう人はこの世にいません。であるならば「ダメで元々」と思って等身大の自分で勝負する。「死にゃーしないさ」の心意気があれば少なくとも今までの緊張からは解放されるでしょう。
p.86 トラブルから逃げていたら人間は成長しません。人生は思い通りにいかなくて当たり前です。要はトラブルがあって当たり前なんです。なのにトラブルから逃げていては、人生が先に進んでいかないじゃないですか。
p.87 自分を救うことができるのは、自分だけなんです。
p.88 とりあえず“最初の一歩”をまずは踏み出すことです。それをしないで「困った、困った」と言っている人が多いんです。やらないから不安がどんどん大きくなって、その不安に押しつぶされそうになってしまうわけでしょ。だったら一歩踏み出せばいい。一歩踏み出せば、一歩ゴールに近づいたということ。何もしないより、そっちの方がよっぽどいいじゃないですか。
p.92 ギリギリまで見守るというのは、ある意味忍耐力を要します。ギリギリを見極める能力も求められるでしょう。
“見守る”と“守る”は違います。“守る”感覚だと子どもの周囲をガチガチに固めて何も寄せつけないようなことになってしまいます。
p.116 いつ、どんな時でも、弱い人、困った人たちの方へ気持ちがいってなければやさしくなんてなれません。
p.127 尊敬している人などいなくていいんです。
“尊敬する”ということは、それだけでもうすでに囚われてしまっているわけです。洗脳されちゃうんですね。その人のやることなら「何でもいい」みたいになっちゃう。
もし「いいな」と思う人物がいるのだとしたら、尊敬ではなく好き、大好きくらいに抑えておいた方がいいでしょうね。
p.137 クレームをつけて、相手から謝罪されれば「私の意見が正しかった」となります。クレーマーはその満足感を味わいたいだけ、人を従わせたいだけなんです。クレーマーは「自分が正しい」と思っていますから、間違ったことをしてもそれに気付くことはありません。
p.141 「客に対して媚だけは売るな。媚を売って銭をもらおうなんてこんな卑しいことはない。その代わり、お客さんをひとりの人間として大切にしろ」
p.141 差し障りのあることって、結局物事の本質を突いている。
p.144 私が昔からよく言っている言葉に「不調こそ我が実力」というものがあります。好調時ではなく、不調な時こそ、その人の真の実力が試されるんです。
p.161 「悪いことをしなければ善人なんだ。法律さえ犯さなければいいんだ」というような考えって多かれ少なかれ誰でも持ってるんじゃないですか。“善し悪し”で物事を見るってことは、結局自分の都合でしか物事を捉えていないということです。多くの人が持っている“善し悪し”というのは、本当の意味での“善し悪し”では決してないんです。
p.174 私の中には“美”という感覚はあまりなく、その代わりに“鮮やか”という気持ちがあります。鮮やかというのは、人間一人ひとりが持っている“色”であり“味”ですね。
p.175-6 自分の味を忘れて「長生きしたい」なんて思うから死が怖いという気持ちが増幅するんじゃないですか? 死というものは誰にでも訪れるもので、怖いものでもおそろしいものでもないと思います。