「人はなぜ逃げおくれるのか――災害の心理学」 広瀬弘忠・著、集英社新書、2004年1月21日
p.11-12 心は“遊び”をもつことで、エネルギーのロスと過度な緊張におちいる危険を防いでいる。ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっているのである。このような心のメカニズムを、“正常性バイアス”という。この正常性バイアスが、身に迫る危険を危険としてとらえることをさまたげて、それを回避するタイミングを奪ってしまうことがある。
p.21 多くの人びとが避難に成功していたにもかかわらず、救援のエキスパートへの過度の信頼が、ホーイらの自衛・自助行動の開始を阻害してしまったのである。私たちは、災害時にはエキスパート・エラーがありうることを、つねに念頭に置くべきである。
p.27-8 災害因がもたらす物理的な破壊力が、直ちに災害そのものを引き起こすのではなく、社会やコミュニティが、その破壊力にどのくらい脆弱であるかで、災害になるかならないか、また、どの程度の規模の災害になるかが決定されるのである。
p.72・74 現実にどのようなかたちで地震が起こるかは、誰も予測できないが、津波に関しては、避難率を高めることはできるということだ。問題は、津波の危険地域に住む人びとが、その危険にどのくらい敏感であるかにかかっている。
p.138-9 (犠牲の発生にあたり)パニックに責任をなすりつけるのは安易である。
p.145 競争におくれをとることが破滅を意味するという状況の認識が、死傷者をだすパニックを誘発してしまう。
p.148-9 パニックというセンセーショナルな言葉を濫用するのは間違いである。そして、パニックという言葉を用いて被害を説明しようとする時には、災害や事故の原因の究明を放棄して、防災上の失敗をごまかそうとする不順な動機があるのではないかと、まず疑ってみることが必要である。
p.152 生存者を、災害を生きのびたサバイバーととらえるか、被災者ととらえるかのちがいは、あたかもグラスにビールが半分ほどになった時に、まだ半分もあると考えるか、もう半分しかないと考えるかのちがいにも似て、生存者の人生に、生きかたの上で大きな差異を生みだす。
p.227 いかに努力しても、完全な防災は不可能である。災害は、私たちの裏をかき、隠れた弱点をあばくのである。
p.11-12 心は“遊び”をもつことで、エネルギーのロスと過度な緊張におちいる危険を防いでいる。ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっているのである。このような心のメカニズムを、“正常性バイアス”という。この正常性バイアスが、身に迫る危険を危険としてとらえることをさまたげて、それを回避するタイミングを奪ってしまうことがある。
p.21 多くの人びとが避難に成功していたにもかかわらず、救援のエキスパートへの過度の信頼が、ホーイらの自衛・自助行動の開始を阻害してしまったのである。私たちは、災害時にはエキスパート・エラーがありうることを、つねに念頭に置くべきである。
p.27-8 災害因がもたらす物理的な破壊力が、直ちに災害そのものを引き起こすのではなく、社会やコミュニティが、その破壊力にどのくらい脆弱であるかで、災害になるかならないか、また、どの程度の規模の災害になるかが決定されるのである。
p.72・74 現実にどのようなかたちで地震が起こるかは、誰も予測できないが、津波に関しては、避難率を高めることはできるということだ。問題は、津波の危険地域に住む人びとが、その危険にどのくらい敏感であるかにかかっている。
p.138-9 (犠牲の発生にあたり)パニックに責任をなすりつけるのは安易である。
p.145 競争におくれをとることが破滅を意味するという状況の認識が、死傷者をだすパニックを誘発してしまう。
p.148-9 パニックというセンセーショナルな言葉を濫用するのは間違いである。そして、パニックという言葉を用いて被害を説明しようとする時には、災害や事故の原因の究明を放棄して、防災上の失敗をごまかそうとする不順な動機があるのではないかと、まず疑ってみることが必要である。
p.152 生存者を、災害を生きのびたサバイバーととらえるか、被災者ととらえるかのちがいは、あたかもグラスにビールが半分ほどになった時に、まだ半分もあると考えるか、もう半分しかないと考えるかのちがいにも似て、生存者の人生に、生きかたの上で大きな差異を生みだす。
p.227 いかに努力しても、完全な防災は不可能である。災害は、私たちの裏をかき、隠れた弱点をあばくのである。