東海道は金勝川(草津川の支流)に突き当り、右に曲がり、川に沿っ
てその先で左に曲がり込むと、目川の集落に入っていく。
目川は「上り下り立場」で、旅の必需品を売る店が沢山軒を連ねていた。
中でも「ひょうたん」は、酒やお茶・水を入れる容器として人気商品
であった。地元農家の副業的な地場産業として、その需要は明治に入る
まで続いたと言う。
街道筋にも、目川のひょうたん直売所が有り、大小様々な形をした可
愛らしいひょうたんが店先で売られていた。
ひょうたんは、二つとして同じ形がないのが特長という。
道辺に「(右方向)東海道 (左方向)中郡街道」と刻まれた石の道
標が立っている。
東海道は右に折れるが、左に取れば金勝川に沿って、石部までは1里
24町26間(約6.6㎞)だ。今日のの県道川辺―御園線の起点である。
横には、川辺灰塚山古墳群の説明も刻まれている。
「目川と梅木の間に灰塚山が有り、昔からここには栗の大樹があった。
ここからは弥生式土器の出土があり、大樹を焼いた灰で築いたらしい塚
が数基有った事から灰塚山と呼ばれていた」という。
その大樹を掘り起こした跡が灰塚池である。
そこを埋め立てた跡地には今体育館が建ち、栗東運動公園になっている。
郡名の「栗太」はこの栗の大樹に因むものだという。
立場の名物は、菜飯田楽で伊勢屋という店が知られていた。
安藤広重が「東海道五十三次之内 石部 目川ノ里」として、田楽茶屋
「いせや」を描いたのはここらしいが、跡地を示す説明板と石碑のみだ。
田楽茶屋・元伊勢屋跡には、「田楽発祥の地」の石碑が立ち、その傍
らには、「従是西膳所」と刻まれた領界石が立っている。(続)
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