簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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猪鼻村と蟹ヶ坂(東海道歩き旅・近江の国)

2023-11-17 | Weblog

 「猪鼻村 上り下り立場なり。坂有り。花坂は上り成り。
 此所よもぎもちをうる。」


 
 本来の旧道は猪鼻交差点を右折し、その先のY字路を右に進み、若宮
神社の社標を見て左折する。
道は直ぐに国道に戻るが、左手に「東海道 猪鼻村」の碑がある。

 猪鼻の地名は、鈴鹿の山から下りてくる猪を除ける垣根があった所に
由来している。村は五十戸程の集落で、立場として賑わい、草餅や強飯
が名物だったという。



 山中村を下った街道は、猪鼻交差点辺りからやや上りに転じる。
この辺りの標高は、284.9mで、旧道と接する辺りでサミットの295.5m
を迎え、その先は少しずつ下り、今では大した坂では無い。
当時は、この上りを花坂、下りは蟹ヶ坂と呼んだ。



 国道脇の椎の木を目印に、そこから右の側道、本来の道に入り込む。
右手の森は、白川神社の末社・榎島神社で、この木は樹齢約四百年の御
神木である。境内には、白川神社御旅所石標があり、鈴鹿山にはびこる
山賊を退治した坂上田村麻呂を祀る田村社と、退治された山賊を祀る蟹
社があるらしい。



 平安時代に蟹ケ坂に出没し旅人を苦しめた大きな蟹は、京の僧・恵心
(えしん)により退治された。僧は村人に、蟹供養の石塔を建て、蟹の
甲羅を模した飴(あめ)を作り、厄除けにするように言い残した。
その蟹塚がこの近くに有るらしい。



 旧道は良い雰囲気の平入りの家並みが続いていた。
蟹ケ坂村を抜け、工場の渡り廊下を潜って先に進むと、右手に「蟹坂古
戦場跡」石標がある。

 説明によると、 天文11(1542)年9月、伊勢の国司・北畠軍の侵攻
に対して、山中城主・山中丹後守秀国軍は当地で戦い撃退し、北畠勢の
甲賀侵攻を防いだと言う。(続)





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