街道の廻りには田園風景が広がり、真っ直ぐに伸びる長閑な畷道の先
に、緑濃い豊かな森が見えてきた。行く手に、自動車通行止めの標識が
現われると、突き当りに真新しい木橋が見える。
森は田村神社で、橋は田村川を渡る海道橋(旧田村橋)、その先が神社
の境内である。
田村川は、鈴鹿山の分水嶺、宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発し、
南西に流れ下り南土山の白川で野洲川の左岸に合流する一級河川で有る。
「かりはし、水増ば かち渡り」
嘗て街道筋の田村川に橋は無く、徒渡りであった。
しかし大水が出る度に溺れ死ぬ旅人が出る有様で、また度々の川留めは
旅人や宿場の関係者を苦しめていた。
このため幕府の許可を得て、安永4(1775)年、土山宿の人達が中心と
なって東海道の道筋を変え、田村川に橋を架けた。
板橋の永代橋、田村橋は、巾2間1尺5寸(約4.1m)、長さ20間3尺
(約37.3m)、高さ0.3mの低い欄干が付いていた。
当時としては画期的な造りで、渡り口には橋番所が設けられ、渡れば土
山宿の高札場である。
田村橋は賃とり橋で、幕府公用の役人、武家やその家族は無料である。
近在に住む百姓達の内、川向こうに田畑が有り、日常的に使うものは、
無料としたが、それ以外の百姓や一般の旅人は三文、荷物を載せて渡る
馬の荷主にも、馬一頭につき三文の渡り賃が徴収された。
永代橋の新設により東海道は、田村神社参道の一部を抜ける事になる。
橋は何度も掛け替えが行なわれながら、台風で流される昭和14(1939)
年頃まで架かっていたらしい。
今日目にする真新しい橋は、平成17(2005)年11月に、再建されたも
ので、「海道橋」と名付けられた。(続)
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