奥州藤原氏は奥州を貫く「奥大道」と呼ばれる街道を整備していた。
その道筋に残されているのが「本堂」手前右手にある「南大門跡」である。
今この地には、土の中に整然と埋った礎石が見て取れる。数えてみると12個ある。
ここには二階建ての大門が聳えていたらしい。

ここが「大泉が池」への入り口で、池の中央の「中島」に向け、長さ17間の反り橋
が架かり、「中島」からはさらに10間の橋が対岸に掛かっていた。

その対岸には「万宝を尽くした」と言われる「毛越寺」の金堂である「円隆寺」が煌
いていた。寺は翼廊と呼ばれる回廊が東西に延びる華麗な寝殿造りである。
奥州を攻め、藤原氏を滅ぼした源頼朝も、荘厳な伽藍に感嘆し「霊場の荘厳は吾
朝無双」と幕府の史書に書き残すほどであった。
金堂から延びる翼廊の先には二階建ての「鐘楼」や「経楼」が置かれていた。

寺域の各所に残る遺構は、今は礎石しか見えないが、ほぼ完全な姿で残されてい
るという。さらに広大な境内を発掘すると、今日でも玉砂利が出土するのだそうだ。
当時の寺域には、池や伽藍を取り囲むように一面に玉砂利が敷き詰められていた。

発掘調査によると伽藍の遺構は、池を中心に浄土庭園を形成し、それは平安時
代末期の様式を良く表しているといい、その規模は浄土庭園と聞いて思い浮かべ
る宇治・平等院をはるかに凌ぐものであったと言う。

藤原氏百年の栄華の歴史と共に、儚く消え去った「毛越寺」は、長い間放置され
再興されることも無く、静寂の中に取り残されていた。(続)


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その道筋に残されているのが「本堂」手前右手にある「南大門跡」である。
今この地には、土の中に整然と埋った礎石が見て取れる。数えてみると12個ある。
ここには二階建ての大門が聳えていたらしい。

ここが「大泉が池」への入り口で、池の中央の「中島」に向け、長さ17間の反り橋
が架かり、「中島」からはさらに10間の橋が対岸に掛かっていた。

その対岸には「万宝を尽くした」と言われる「毛越寺」の金堂である「円隆寺」が煌
いていた。寺は翼廊と呼ばれる回廊が東西に延びる華麗な寝殿造りである。
奥州を攻め、藤原氏を滅ぼした源頼朝も、荘厳な伽藍に感嘆し「霊場の荘厳は吾
朝無双」と幕府の史書に書き残すほどであった。
金堂から延びる翼廊の先には二階建ての「鐘楼」や「経楼」が置かれていた。

寺域の各所に残る遺構は、今は礎石しか見えないが、ほぼ完全な姿で残されてい
るという。さらに広大な境内を発掘すると、今日でも玉砂利が出土するのだそうだ。
当時の寺域には、池や伽藍を取り囲むように一面に玉砂利が敷き詰められていた。

発掘調査によると伽藍の遺構は、池を中心に浄土庭園を形成し、それは平安時
代末期の様式を良く表しているといい、その規模は浄土庭園と聞いて思い浮かべ
る宇治・平等院をはるかに凌ぐものであったと言う。

藤原氏百年の栄華の歴史と共に、儚く消え去った「毛越寺」は、長い間放置され
再興されることも無く、静寂の中に取り残されていた。(続)


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