采女地域に入ると、国道の分岐辺りの標高は13m、金刀比羅宮の辺り
で20m程であった。「うつべ町角博物館」前迄に4m程上り、「史跡
杖衝坂」の石柱前では37m余りだ。標高としては大して登っている訳で
はない。
その先僅かな距離で坂を上り詰め、サミットを迎えるが、それでも最
高地は50mには届かない。しかしこの坂が、東海道でも名うての急坂と
言われるのは、距離を稼ぐこと無く急激に坂を登るからである。
古風な家並みの続く坂を登り切ると、山裾を背後に控えた左側に小さ
な祠があり、その奥に「日本武尊御血塚」の碑が建っている。
日本武尊はこの坂を、「小さな井戸の水で疲れを癒やしながら・・」、
「剣を杖代わりにして登った」が、ほとほと疲れ「吾が足は三重の勾が
りの如くして、はなはだ疲れたり」と嘆かれたそうだ。
気が付けば怪我をしていて、足から血がながれ出ていたのでこの場で
血を洗い、止血した所と地元には伝えられている。
因みに三重県の県名は、この故事に因むとの説もあるそうだ。
ようやく平坦となった坂の上は、時代から取り残されたように風情の
ある通りだ。嘗てこの辺りは杖つき村立場(休憩所)で、茶店では名物
の饅頭を売っていたという。
商いは止めたその店が今でも残されているらしいが、どのお宅なのか、
面影も無く判別が付かなかった。
そんな街道を500m程進むと、やがて右に国道1号線が見えてくる。
合流の手前に、江戸から数えて101番目の「采女の一里塚跡」がある。
戦後まで土塁様の塚が残されていたらしいが、今は案内標識のみである。
昭和40年代に入り、国道の拡幅工事などで消滅したという。(続)
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で20m程であった。「うつべ町角博物館」前迄に4m程上り、「史跡
杖衝坂」の石柱前では37m余りだ。標高としては大して登っている訳で
はない。
その先僅かな距離で坂を上り詰め、サミットを迎えるが、それでも最
高地は50mには届かない。しかしこの坂が、東海道でも名うての急坂と
言われるのは、距離を稼ぐこと無く急激に坂を登るからである。
古風な家並みの続く坂を登り切ると、山裾を背後に控えた左側に小さ
な祠があり、その奥に「日本武尊御血塚」の碑が建っている。
日本武尊はこの坂を、「小さな井戸の水で疲れを癒やしながら・・」、
「剣を杖代わりにして登った」が、ほとほと疲れ「吾が足は三重の勾が
りの如くして、はなはだ疲れたり」と嘆かれたそうだ。
気が付けば怪我をしていて、足から血がながれ出ていたのでこの場で
血を洗い、止血した所と地元には伝えられている。
因みに三重県の県名は、この故事に因むとの説もあるそうだ。
ようやく平坦となった坂の上は、時代から取り残されたように風情の
ある通りだ。嘗てこの辺りは杖つき村立場(休憩所)で、茶店では名物
の饅頭を売っていたという。
商いは止めたその店が今でも残されているらしいが、どのお宅なのか、
面影も無く判別が付かなかった。
そんな街道を500m程進むと、やがて右に国道1号線が見えてくる。
合流の手前に、江戸から数えて101番目の「采女の一里塚跡」がある。
戦後まで土塁様の塚が残されていたらしいが、今は案内標識のみである。
昭和40年代に入り、国道の拡幅工事などで消滅したという。(続)
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