
かぶと石坂を下ると「接待茶屋」の看板が立っている。
箱根山中における接待の場所がこの茶屋で、ここでは馬には一桶の煮麦(飼葉)
を、旅人には一椀の粥と、たき火を無料で施していたと伝えられている。
冷えた身体を暖めたり、たばこで一服する姿が目に浮かぶ。

今では茶屋の建物は何も残ってはいないが、当時表に掛けられていた看板が
保管されていてそこには、「永代、せったい所、江戸呉服町加勢屋友七祖父、
施主、与兵衛」と書かれているそうだ。
江戸の篤志家による寄付金で運営されていた茶屋があった場所で、この辺りは
施行平と呼ばれている。

その先に「かぶと石」と書かれた説明板が立てられていて、その奥に苔の生
した三角錐上の大きな石が置かれている。
一見すると兜のようにも見えるのでこの名が有るようだが、一説には豊臣秀吉
が小田原攻めに向かう途中この地で休み、その折に自身の兜をこの岩に置いた
ところから名付けられたとも言われている。

そう言えば井上靖の箱根八里記念碑の近くにも「兜石跡」と書かれた石柱と、
半ば土と枯れ笹に埋もれかけた大岩が有ったが、古書には「甲石坂に甲石二つ
あり」と言う記述が残されているらしく、これらは元々の位置から道路工事に
伴い移されたものらしい。

その先には、この地で明治天皇が小休止されたと言う石碑も建てられている。
古代の人々が東国を目指した当時は、是より北の足柄峠越えで有ったようだが、
中世以降は主要な街道として当然のことながら、この道は大勢の公用の役人、
遊行の庶民、文人墨客が行き来している。
その同じ道を今こうして歩いているのかと思うと、感慨もひとしおである。(続)


