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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

ここにも曲尺手(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-18 | Weblog


 その先に浄土真宗・西御坊の浄念寺があった。
開基は、明応4(1495)年に、蓮如上人の弟子の石見入道浄念による
寺である。枚方は元々浄土真宗が盛んな地であったが、天和年間に本
願寺が東と西に分裂したため、浄念寺を西御坊、京阪踏切を挟んで反
対側にある願生坊を東御坊と呼ぶ様になった。



 寺の前の道は右へ曲ってすぐ左折するいわゆる「曲尺手(かねんて)」
になっている。枚方宿には本陣を挟んで、東側には枚方橋と宗佐の辻、
西側にはここ浄念寺と西見付に曲尺手が設けられていた。



 これは大勢が一気に宿場内に雪崩れ込む事を防ぐ軍事的な目的の他、
大名行列同士が宿場内でかち合わないようにする役割も持っていた。

 この時代、大名がすれ違う時は、格式の低い大名が駕籠から降り挨拶
する仕来りがあり、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭
にとっては一番の失態とされていた。その為曲尺手の先に斥候を出して、
万一の場合は休憩を装い、近隣のお寺に緊急避難をした。



 近くに「枚方宿問屋役人木南喜右衛門家」屋号は田葉粉屋の重厚な屋
敷が残されていた。案内板には「木南家は江戸時代初期から庄屋と問屋
役人を兼ね、くらわんか船の茶船鑑札を所持し、宿と村の運営に大きな
影響を行使した。」と書かれていた。



 現在の建物は明治期の建築で、長い間口に出格子と虫籠窓が連なる伝
統的な表屋造りで、広い敷地内に、四棟の土蔵を配した町屋は可成りの
規模である。
 他にも岡元町の大塚家や羽田家等、平入りの町屋が二・三建っていて、
旧道沿いらしい趣を見せている。(続)



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 旧三矢村 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-16 | Weblog


 人混みに混じり、宗左の辻近くで簡単に昼食を済ませ、岡本町公園に
立ち寄り少し身体を休めたが、ここで時間を掛けすぎたようで、再度街
道に出て歩き始める。

 その先の道路を越えると、道幅が若干狭くなり電線・電柱が地中化さ
れた、町並保存地区のような道が西に延びていた。



 街道は観光通りらしく、多くは近年オープンしたのか、お洒落なカフ
ェや店舗、ギヤラリー等が軒を連ねている。また旧道らしい虫籠窓を備
えた白漆喰塗りの軒の低い平入り商家も幾らか目にすることも出来、そ
んな店舗や町家等を覗き歩く観光らしい人達も多く見られる。



 途中に「妙見宮常夜灯石灯篭」が立っていた。嘉永7(1854)年に
奉納された花崗岩製の石灯籠で、高さが2.8mあり、柱には「妙見宮」
「天下泰平」「驛内安全」と刻まれている。
足元に立つ石柱には、「旧三矢村・岡村の村境」とあり、ここから西
が旧三ツ矢村で、現在の「三矢町」に入って行く。



 三矢公園には、「枚方宿本陣跡」の案内板が建てられていた。この地
に池尻善兵衛家が代々営んだ、宿場で唯一の本陣が有ったが明治に入る
と取り壊され、跡地には北河内郡役所が置かれた。
 間口が20間、奥行24間、建坪215坪、土地470坪の堂々たる物であっ
たらしい。紀州候の定宿で八代将軍吉宗も藩主時代に泊まったという。



 慶応4(1868)年1月鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、すか
さず新政府が動き、同年の3月には明治天皇が大坂行幸を企て、この
本陣で休憩をした。
その戦前に建てられた記念碑は、公園の入口付近に残されている。(続)



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枚方岡本町公園辺り(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-13 | Weblog
 枚方宿を貫く街道は一度「枚方ノ橋」の有る岡本町で南に折れ、その
先の宗左の辻で今度はほぼ直角に曲がり西に進路を向ける。
宿内の守りを固める所謂「曲尺手」である。



 それを抜け府道139号に出ると、道を隔てた向こう側に商業施設「ビ
オルネ」が見える。ショッピングセンターとマンションから構成される
複合商業施設だ。
平成2(1990)年に市街地再開発事業の一環でオープンした。


 
 地上15階、地下2階建ての北館は、地下1階から6階まではショッピン
グセンター、その上の階はマンションになっている。
 一方地上10階・地下2階建ての南館は、4階以上がマンションになって
いるが、通りに面して商業施設が店舗を構え、2階部分が京阪本線枚方
市駅と直結している。



 周辺では丁度昼時でサラリーマン風の人々の姿も見え、人出も多く飲
食店の前には行列も出来、繁華な様相を見せていた。
そこに「京街道」と書かれたモニュメントがあり、その先に北館と南館
を結ぶ連絡通路が通され、その下を京街道が抜けている。



 抜けると南館の先左側に岡本町公園があり、入口付近に「歴史街道枚
方宿」と刻まれた石柱と共に、「枚方宿の案内地図」が掲げられていた。
直ぐ南は京阪本線線路で枚方市駅に近く、商業施設に囲まれた市街地の
ど真ん中にぽっかりと空いた空間に設けられた公園だ。



 ケヤキであろうか高木が何本か植えられている。線路側には藤か何か
の棚で木陰が造られ、その前に小さな砂場が設けられている。
町中の公園は、地面がむき出しでは砂埃が立ったり、雑草が生えるのを
嫌うのか、広々とした園地は一面がタイル張りだった。(続)



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宗左の辻 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-11 | Weblog


 京阪の枚方市駅を見通す駅前の通りを過ぎるが、この辺りが市の中心
的な場所らしく随分と賑わっている。そこを過ぎ左に緩くカーブしなが
ら町並を抜ける。と右手に「枚方橋跡」の案内があり、その親柱がここ
に残されていた。今は暗渠だが古くは安居川(中川)が流れ「枚方ノ橋」
と呼ばれる土橋が架かっていた。



 宿内には、出格子、虫籠窓、漆喰壁で袖卯建の上がった平入りの旧家
が幾らか残されている。町屋は間口2間半から4間のものが多いらしく、
3室の居室を縦1列に並べ、その片側に通り庭を配するのが基本形式で、
カマヤ(炊事場)は裏手に設けるのが特徴という。



 嘗て街道筋には旅籠屋や煮売屋の他、古道具屋、醤油屋、荒物屋など、
様々な商店が並び、中には酒造業や製油業を営む家もあった。 

 角野宗左(そうざ)は製油業を営む豪商で、ここに屋敷を構えていた。
岡本町商店街の角がその跡地で、ここを「宗左の辻」と言う。



 道路隅に文政9(1826)年の道標が残されている。
正面に「右 大坂みち」、側面に「願主 大阪 和泉屋・・」と刻まれ
ている。江戸時代、一般的には「大阪」の「阪」の文字は「坂」の字が
使われていたが、この碑では「阪」が使われている。この字が使われ始
めたのは明治以降とされているだけに大変珍しい道標と言われている。



 この道標は、京街道と磐船街道の追分けを示すものだ。
磐船街道とは、枚方から私市、磐船を経て、生駒市の南田原に至る道の
事で、枚方から私市へと続く道を「枚方大和道」、奈良県側の道を「岩
船街道」と言うらしい。
磐船に有る岩船寺は、ご神体である舟型の巨岩が知られている。(続)



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枚方宿(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-09 | Weblog
 「マイカタちゃいます、ひらかたです。」



「枚方の地名の由来はわかりませんが、奈良時代に成立した『日本書紀』
には、「ひらかたゆ笛吹き上る近江のや毛野の稚子い笛吹き上る」という
歌がみえます。(枚方市HP)」



 枚方市は大阪府北東部、北河内地域に位置する市で、京都府と奈良
県に接している。東の生駒山と西の淀川に挟まれ、人口は40万人弱、
世帯数は凡20万世帯余だ。

 戦後大規模な住宅団地が開発され現代では高層マンション等が増え、
京阪神間の中核的なベッドタウンと位置付けられている。



 豊臣秀吉が大阪の石山本願寺跡の上町台地北端に大阪城を築き、西側
に城下町を開くと、京と大坂城を結ぶ新たな街道の整備が必要となった。
更に秀吉は淀川左岸に大堤防を築いたが、これが文禄堤で、京街道は近
世の初めこの堤を利用して通された。

 江戸時代に入り東海道が整備されると、慶長から寛永年間頃、この街
道に沿って現在の枚方市に宿場が設けられたという。



 東海道五十六番目の宿場・枚方は、京都・大阪の中間にあり、淀川に
面した水運の中継地で、古くから交通の要衝として知られていた。
元々は中世の末期頃、真言宗寺院の順興寺(願生坊)を中心として、蔵
谷・上町・下町等の町場が形成され寺内町として発展したのが始まりだ。



 東見附から西見附まで、岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四ケ村で
構成され、総距離は797間(1.5㎞)に及び、京街道の宿場の中では最大
規模を誇ったという。

 時代により異なるが家数378軒、人口凡そ1500人で、男女比は4:6、
女性が多いのは飯盛り女が沢山いたかららしい。問屋場が有り、旅籠は
69軒を数え、本陣も1軒有ったが脇本陣はなかったという。(続)



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町屋の鮒ミイラ (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-06 | Weblog


 東見附を後に、カラー舗装に導かれ、枚方宿の中心部に向う。
見附の300m程先が中心部となり、左側には京阪の枚方駅が有る。
枚方宿は更に先に延びその長さ1.3㎞に及ぶ、可成り規模の大きな宿場
であったようだ。



 新町で最初に目にする平入り平屋建ての旧家は、「旧枚方宿問屋役人 
小野平右衛門家(八幡屋)」の建物で、家業は豪農、醤油業を経営し村
年寄りを兼ねていた。
問屋は宿の業務を指揮監督する最高責任者で、村の庄屋が兼務していた。



 説明によると当家には正徳6(1716)年建築の古図と鬼瓦があるが、
現在の建物は間口8間(14.5m)、梁行六間(10.9m)もあり、居室は
2列に6室が配されている。厨子二階、起屋根、虫籠窓、うだつ、格子
窓、出格子、揚げ床几、釣り蔀などは幕末期のものと思わている。

 平成15(2003)年に主屋が修復復元されたが、その折二階屋根裏から
「鮒のミイラ」が見付かったと伝えられ、淀川洪水によるものという。



 因みにこの洪水は、明治18年6月から7月にかけて、近畿地方上空に
二つの低気圧が居座り、豪雨が降り続いて淀川が増水したものだ。
 これにより淀川や支流の天野川の堤防が決壊し、この辺りでも軒下ま
で浸水した。その折屋根裏に入った鮒が、水が引いた後も取り残され、
ミイラ化したものという。



 この時、「府下の北・中河内郡、東成郡及び大阪市街の約15,269町
歩(15,142ha)、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71,000
戸が最大13.3尺(約4m)浸水し、家屋流失約1,600戸、同損壊約15,000
戸という甚大な被害に見舞われた。



 度重なる淀川の洪水は、人々の暮らしや経済活動に大きな影を落とし、
(中略)これにより淀川の抜本的な改修機運が高まった。
(淀川河川事務所HPより)」(続)

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枚方宿東見附跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-04 | Weblog
 「天之川町」の旧道を抜け、天野川の土手の行き止まりを右折して、
凡50m程で府道に出て左折、現在の鵲橋を渡る。嘗てこの川には木橋
が架けられていたが明治に入ると京街道が国道格上げされた事により、
架け替えられた。



 更に昭和に入り旧道より少し下流に新国道が開通すると、木橋はコン
クリート製に改修されている。
現在の鋼鉄製の永代橋が完成するのは、平成8(1996)年3月の事だ。
橋の袂には旧橋の親柱が保存、残されている。



 広々とした近代橋を渡り終え、直ぐに左折するすると角に、「歴史街
道」「←枚方宿東見附跡」の石碑が建っている。ここが宿場の東側の入
口らしい。ベージュにカラー舗装された土手沿いの道が延びていて、
そこを下って行くと東海道五十六番目の枚方宿へと入っていく。



 東見附跡は天野川に架けられていた旧鵲橋西詰に当たる場所で、公園
風に整備された入口の道路脇には大きな案内板も建てられている。
そこには、「河内名所図絵」が表示され、「淀、伏見宿方向へ向う大名
行列が「天野川」に差掛かり、見送りに出た宿役人が東見附で待受ける
光景が描かれている。」(案内板より) 



 枚方では、嘗ての宿場町の面影を色濃く残す町づくりが行われている
という。旧跡にはサインが建てられ、旧道にはカラー舗装が施されてい
るのでそれを辿れば道を間違うこともない。この先の町歩きが楽しみだ。



 近年では新たな賑わいを取り戻そうと、「枚方宿くらわんか五六市」
が毎月第二日曜日に開催され、それと呼応するかのように、大阪の天
満橋・八軒家浜と枚方を結ぶ観光船も、概ね月1回以上の定期運航がさ
れているらしい。(続)



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鵲(かささぎ)橋 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-06-02 | Weblog


「これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの川原の かささぎのはし」



 天野川は、奈良県の生駒山地に水源をもつ一級河川で、交野から枚方
を経て、枚方から700m程西で淀川に合流し、大阪湾に注いでいる。
 民家の詰まった「天之川町」の旧道を350m程進むと、その天野川の
土手に突き当たる。江戸時代ここには「鵲(かささぎ)橋」という、長
さ17間、幅3間1尺の木橋(板橋)が架けられていた。



 元文2(1737)年に発行された「岡新町村明細帳」や「河内名所図
会」には「天川(あまのかわ)」の鵲橋が紹介されているが、本来幕
府はこの川への架橋は禁じていたらしい。

 ところが御三家の一つ、紀州家の参勤交代の折に限っては、仮橋の
架橋を許可していた。橋は使用後も取り外さず、壊れるまで銭取り橋
として通行料をとって使っていたが、橋が無くなると、人足により徒
歩渡しを行っていたようだ。



 橋の名前は、淀川方面から眺めると、カササギが羽を広げたように見
えることに因んでこう呼ばれるようになった。また鵲の橋とは、旧暦の
7月7日の七夕の日に、天の川に「織姫」と「彦星」が出会うためにで
きる橋の名前で中国の故事にあるらしい。



 橋は岸辺の岡・岡新町の両村が共同で管理をしていたが、修繕や架け
替えの費用などは幕府が負担をしたとの記録が残されていると言う。
一般的には幕府が負担するなら「公儀橋」となるが、本来架橋は認めて
いなかったのなら、これは矛盾する。



 幕府の施策も江戸初期の頃に比べれば、中期以降は御法度も随分と緩
くなったらしい。当初はダメでも後に良しとなったものもあり、この橋
もその類いかと思ったりする。(続)

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天之川町(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-30 | Weblog


 京阪牧野駅の西側にある淀川河川敷の牧野パークゴルフ場は、その最
南端が丁度御殿山駅の西辺りなる。両駅間は直線で2㎞程離れている。

 プレーは行って帰ってだから、ゴルフも随分と歩く競技だと、改めて
思い知らされる。 ゴルフをしなくなってもう三十数年経つだけに最近
の状況は良く知らないが、近頃では乗用カートの利用も多いらしいから、
昔ほどは歩かないのかも知れない。



 御殿山駅から南に600m程進んで、旧「京阪国道」、今日の「府道13
号京都守口線」とは磯島の交差点で別れるが、その角右手に「枚方な
ぎさ高校」が有った。枚方西高校と磯島西高校が再編により統合され、
平成16(2002)年4月に誕生した普通科総合選択制の学校で、校名は
淀川の河川敷に近いことからのイメージらしい。



 磯島交差点のある辺りの地名を「茶屋町」という。嘗て街道に茶屋で
も有った名残かとも思うが、案内はどこにも見当たらなかったので、定
かには解らない。交差点から左に入る細い道が旧道らしく、民家等が密
集した狭い道が延びている。



 暫く行くと、旧道は小さな川に架かる「ひのばし」を渡る。
直ぐ左手の京阪本線の線路も、民家の裏側を旧道に沿うようにカーブし、
この先高架に成るのか、やや上り勾配で、道路よりは人の背丈ほど高い
ところを通っている。



 橋の先で道幅が少し広がると、「天之川町」という、きれいな町名の
地域に入って来た。曰くのありそうな名は、この先町の南側を流れる川
に由来するらしい。川は「天野川」と表記するが、昔は「天の川」とも
書かれていた。名前は七夕伝説に基づくものという。(続)



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御殿山あたり (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-05-28 | Weblog


 黄金野一丁目で京阪本線の踏切を越え、旧道は三栗地区に入っていく。
旧道沿いは住宅街で、多くは最近作られた今風の住宅や、多層階のマン
ション、集合住宅などが建ち並んでいる。そんな中に旧家の重厚な造り
の日本家屋も若干見られるものの、左程古い建物ではなさそうだ。



 浄土宗の・清傳寺を右に見て進むと、広い道と交差する三栗交差点で
それを越える。この道は現在では「府道13号京都守口線」と呼ばれてい
るが、嘗ては「京阪国道」と呼ばれた幹線道路で、越えるとここには僅
かばかり旧道が残されていた。その先牛丼店のところで先程越えてきた
府道に合流すると、ここからは暫く交通量の多い道の歩道をひたすら歩
く事になる。



 左から京阪本線が府道に寄り添ってくると御殿山駅で、道路に接する
ように造られたホームの壁が見えている。
同線の中では比較的新しい駅で、開業は昭和4(1929)年といい、乗客
は左程多くはないのか、特急などの優等列車は通過するようだ。



 この地名の御殿山を、ウィキペディアで調べてみると、その謂れは
「惟喬親王(これたかしんのう)」の御殿(別荘)『渚院の四阿(あず
まや)』がこの近くにあった事によるらしい。
 平安時代前期の皇族・惟喬親王は、第55代・文徳天皇の第一子で、
立太子争いに敗れ、失意の日々を景色の良いこの別荘で過ごし、苦し
みを和らげたと伝えられている。



 一方異説では、江戸初期に淀藩主・永井家系統の永井伊賀守が領地支
配の陣屋を建てたため、その御殿があった場所だからと言う。
通りは商店も多く賑やかで、一見新しい町かと思ってしまうが、歴史的
にも由緒ある地名のようだ。(続)



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