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2013-09-03 | bookshelf
57歳の葛飾北斎
1817年文化14年猿猴庵(えんこうあん)作『北斎大画即書細図』
1825年文政8年小田切春江転写版より

 きっかけは、他愛のないものでした。
 江戸時代の著名人の肖像画のほとんどが、なぜ坊主の老人の姿しか残されていないのか…山東京伝のような、優しいおじ様的肖像画をどうして残さなかったのだろうか…というどーでもいい疑問でした。十返舎一九先輩のは、盃を手にした、いかにも飲んべえ面した60代の男、という情けない肖像画が一番出回っています。広重のは、豊国が描いた数珠を手にした剃髪姿の肖像画ですが、これは死絵なので仕方ないですが、表情はきりりとして生前を偲ばせるものです。
 メディアで紹介される肖像画は、誰が描いたのか表記してないものも多いので、描いた人が生前の本人を見たことない画家である場合もあるでしょう。年老いて死んだ北斎なんて、しわくちゃ爺の肖像ばかりで可哀想になってきます。
  左:作者不明 右:渓斎英泉画
 英泉の絵も坊主の画ですが、表情は北斎を如実に写し取っているように思えます。それなら、自画像だったら確かじゃないか?というと、これが一番当てにならないものでした。以前このblogにも載せた一九先輩の自画像は、ふざけてるとしか思えないものでしたし、北斎にしても同様でした。
「時太郎可候」とあるので、40歳代前半であるはず。
ぜんたいこの時代の画家はシャイだったのでしょう。京伝にしても、戯作に登場させる自画は、艶次郎そっくり(団子鼻)です。しかし、戯作に登場させる実在の人物を、うまく特徴を掴んで描いている場合も多々あります。
 若い北斎 ― 描いたのは、北斎より5つ年上の尾張の文筆家&画家、猿猴庵(本名:高力種信こうりきたねのぶ。1756年宝暦6年~1831年天保2年。尾張藩中級武士)。
 元禄に朝日文左衛門あれば、化政に猿猴庵あり。猿猴庵も文左衛門と同じく、1772年(16歳)から著作活動をしていて、世間の出来事を綴った『猿猴庵日記』や、名古屋城下の出来事を取材した絵入りの記録本を遺しています。文左衛門はプライベートなものでしたが、猿猴庵のほうは、世に伝えるジャーナリストとして活動していたようです。
 そんな彼が、1817年文化14年名古屋へやって来た江戸の有名画家・北斎先生が、西本願寺掛所で120畳の達磨の大画即書会をやる、と聞いてすっとんで行っただろうことは、安易に想像できます。既に江戸などで催され話題になっていたイベントの模様を、猿猴庵は画入りで実況中継風に書き記しました。出来上がったものが『北斎大画即書細図』。猿猴庵の名前が現代でも有名なのは、この作品の存在あってだと思います。
 かくして、ジャーナリストの目で見て描かれた57歳の北斎が、私の目の前に颯爽と登場することになりました。
太い線を描く時は、俵5つ分の藁を束ねた筆を使用。左が北斎。先の画の北斎より皺がない。

彩色は、棕櫚ほうきを使用。右が北斎の後姿。ほうきが達磨の黒目となっているトリック画。
 即書会では弟子が2人補助しています。それぞれ袴の色で識別できるのですが、冒頭の北斎の姿以外、顔に注意を払って描かれていないようです。作品に最初に登場する北斎の姿(冒頭の絵)が、北斎を写し取った画ではないかと思います。
 こうして見ると、どうみても普通の中年侍にしか見えません。ちゃんと髷結ってるし、服装もきちんとしています。想像していた、エキセントリックな北斎のイメージとかけはなれた姿に、最初は信じられませんでしたが、冷静に考えれば、そうだろうな~と納得しました。
 

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