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portraits of Gennai Hiraga

2014-07-12 | bookshelf
『先哲像伝』 原得斎の自筆模写編集本
著名人の肖像画を集め、略伝と共に紹介した書籍7冊中第4冊「詞林部」に収蔵された
桂川月池(=森島中良or桂川甫周)が描いた平賀鳩渓こと源内像

 平賀源内について、現代では「日本のダ・ヴィンチ」と言われているようですが、明治や大正時代に書かれた彼の評伝や略伝を読むと、山師(詐欺師)で狂人だったと書いてあり、酷いなぁと感じると同時にやっぱりなぁとも思いました。
 「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれる所以は、おそらく「エレキテルを復元した人」だからだと思いますが、「発明」したと勘違いしている人も多いと思います。確かに源内は、壊れたエレキテル(正確には“ゑれきせゑりていと”ラテン語のelectriciteit)を電気の知識もなく復元したのだから大したものです。
 マスメディアの歴史人物伝で紹介される源内は、江戸の長崎屋でカピタンが持っていた知恵の輪をその場で解いて、オランダ人たちを感服させたとか、「土用の鰻」を考え出したとか、当時の江戸の最先端をいっていた人物で江戸の天才、という扱いをされています。だからか、普通に「平賀源内は江戸期の大天才」と考えられているのでしょう。事実、私もそう思っていました。
 「時代の寵児」とか現代で言えば「セレブ」だとかにさほど興味がないので、平賀源内についてもサラッと流してましたが、彼の犯した刃傷沙汰に疑問を持つようになって、調べてみました。すると、よく知られている「平賀源内像」自体が既に真実と違っていたことに驚かされました。
平賀源内の肖像として有名な肖像画
 この肖像画を見る限り、色白痩身で粋な通人という風貌で、「江戸の奇才」に相応しく見えます。平賀源内の容貌はこんな風だった、と誰もが信じていたこの肖像画、源内が生まれた高松藩の家老・木村黙老が、源内没後65年も経ってから、源内をよく知っていたという老人の話を聞いて描いた絵なのです。黙老自身は源内を見たことなく、また話を聞いた老人が誰なのかも不明です。
 本物に近い肖像画は、『先哲像伝』という書物に載っていました。この本も源内没後書かれたものですが、肖像画は桂川月池(この号は森島中良かその兄甫周が使っていたそうですが、恐らく中良の方だと思います)が描いたものの模写(本自体が原得斎:1800-1870年儒学者 が写したもの)だということで、私が読んだ伝記(城福 勇著)にはこちらの肖像画が掲載されていました。
 森島中良は平賀源内の一番弟子だったから、いくら絵が上手くないといっても、特徴は信頼度が高いと思います。本人に近い肖像画があるのに、どうしてこちらは余り知られていないのでしょうか。一見して、月池画源内像は恰幅よい厳つい感じの男で、時代の寵児というカリスマ性が感じられませんが、黙老作の源内は「如何にも」それらしい人物像だからじゃないでしょうか。実際の源内は、友人への手紙に「肥えている」ということを書いているそうで、晩年は特に太ったそうです。
 あるいは、黙老に語った老人は高松藩の人で、源内が藩に仕えていた若かりし頃の姿しか知らなくて、そこに絶頂期だった源内の姿を重ねて描いたのかもしれません。共通してるのは、小さな目、受け口、細い髷、少し張ったえら、細身の刀。薄化粧したような顔は、ひょっとして若衆好きだったことを表現したかったのかもしれません。中良の源内は、額に毛がなく無精髭を生やしていますし、晩年の源内なのかもしれません。
 晩年の源内。本当に気が違って人を危めてしまったのでしょうか。

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