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folklore accepted as Japanese history 1

2018-05-19 | ancient history
   
 「ヤマト政権以前の日本」を探す作業は、古事記や日本書紀に隠された「古代日本の真の姿」を探る作業となってしまいました。
 古事記・日本書紀関連の書籍を読んでいると、記紀に関する疑問は増えるばかりで、納得できる学説になかなか出合えませんでした。それで一旦日本神話そのものから離れ、何故その神話が天武天皇(大海人皇子)以降の天皇家(為政者)に選ばれたのか、という視点で考えてみることにしました。
 一般的で解りやすいために、日本書紀に後年付けられた漢風諡号の天皇名が古代の支配者の名前に使われているので、私たちは古代の支配者は「天皇」ではなく「大王」だったと認識してはいても、古代の大王も「天皇家」のように脈々と続く血族関係の王族だったと思いがちです。
 しかし、古事記や日本書紀の古代天皇(大王)の皇位継承の記述には、不自然な箇所がいくつか見受けられます。それ故「王朝交代」説が研究者の間で論じられましたが、そもそも「王朝」自体の定義が曖昧だという理由で、「日本には王朝交代はない」ということになっているようです。つまり「王朝交代」は定義がはっきりしていないので、理論自体が最初から破綻している(成り立たない)という事なのでしょう。
 でもだからといって、それが「血族関係にある王族がずっとヤマト政権のトップであった」根拠にはなりえません。また、古代の大王が奈良県を中心とした畿内に都を置いていたかどうかも、確証はありません。“大和朝廷”や“ヤマト政権/王権”という呼称も、現代の歴史学者が考えた用語でしかないからです。倭の五王の時代(400年代)の大王たちは河内を中心に政治を執っていたと考えられるので、“河内政権”と呼んでも差し支えないと思います。
 なぜ“ヤマト”にこだわるのでしょうか。それは、大海人皇子が壬申の乱に勝利した後、飛鳥岡本宮(奈良県明日香村岡)の南に飛鳥浄御原宮を造り即位しましたが、「天皇」という君主号がここで初めて誕生したからではないでしょうか。ただし読み方は「スメラミコト」だったそうです。大和の地で天皇(号)が誕生し、それより古い大王もしばしば大和周辺に宮を営んでいたので、昔の歴史学者は、天皇が住居した大和の地が古代日本の中心地だと信じていたのでしょう。(邪馬台国をヤマトと結び付けたがるのも、日本を統一したのは天皇の血族だと信じているからかもしれません。)
 平林章仁氏は『天皇はいつから天皇になったか?』の中で、天武朝と養老年間(元正天皇)に令(りょう)と歴史書の編纂が同時進行だったことを指摘し、「歴史と法が国家・社会の基本的な秩序であるとする、古代的観念にもとづく営為である」とちょっと堅苦しく説明しています。つまり、古代国家にとって、歴史は法律と同じように、民衆の日常生活の秩序を保つものだと信じられていた、という事です。
 歴史書の編纂者の課題は、手元に蒐集された雑多な神話伝承を、どうやって天皇と貴族の権威を高め、なおかつ人々が納得できる伝承に仕立てればよいのか、という事だったと思います。
 平林氏の「氏族が内容の共通する神話・歴史を共有することで、王権の成員間に自覚と自負、帰属意識が醸成され、天皇の下に結集するのである」というのは、納得のいく結論でした。
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