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a mystery of sharaku's works 8

2014-03-26 | bookshelf
日本橋大伝馬本町通り沿いにある
蔦屋重三郎書肆「耕書堂」跡 説明看板

 元より西洋人向けに制作した錦絵だったので、江戸庶民から支持されないのも蔦重には計算済みのことでした。とにかく阿蘭陀人には好評で、元手はとれました。長崎屋を通じて、次は役者の服装を描いたものを欲しがっていると聞いた蔦重は、次回7~8月の興行では、役者の全身像の浮世絵を制作しました。今度は時間の余裕もあるので、寿平は着物の柄や役者のポーズなど、歌麿の助言を仰ぎながら描くことができました。
 蔦重にとっては、和泉屋の豊国画に対抗する気持ちもありました。また、カピタンに浮世絵の荷物を送ることは、リスクが高く、長く続けられるものではないことは承知の上でした。蔦重は、一般ウケする役者絵へシフトしていく計画でした。そして、目論見は当たって、大首絵よりは売上は伸びました。それでも、豊国の役者絵にはかないませんでした。
  1794年寛政6年8月
 そのうちに、役者や座元、耕書堂の客などから、東洲斎写楽という絵師はどんな人なんだい、紹介してくれないか、と言われるようになりました。公表するとまずい身分の方なので…という言い訳も、大田南畝のような仲間内の人間には通用するはずもありません。南畝はこの年、幕府の人材登用試験を受けて主席で合格したものの、すぐに出世に結び付かず暇を持て余していました。いくら仲間内とはいえ、南畝は武家、しかも幕府に最も近い人物なので、さすがに蔦重も正体を明かすことはできかねました。「写楽プロジェクト」はそろそろ幕引きだな、と蔦重は寿平に伝えました。
 齢50を超えた寿平にしても、蔦重の家に死ぬまで居るわけにもいかないと思っていました。養子先の駿河小島藩へは戻れませんが、生まれ故郷の紀州田辺に帰りたい、生家の桑島家は既に長兄の代になっていて、事情を話せば受け入れてくれるだろう、しかし田辺(現・和歌山県田辺市)へ行く方法がない、と蔦重に相談を持ち掛けていました。
 蔦重に名案が浮かびました。
 今回の役者絵は、蔦重にとってちょっとした遊び心を満足させる出版物でした。実はこれと並行して、耕書堂の今後の発展を考えて、江戸の地本を江戸以外の地方で売るルートを開拓すべきだと、尾州の書肆・永楽屋東四郎とコンタクトをとっていました。永楽屋は、尾張藩校の御用達にもなっている書物問屋で、2代目の若旦那は江戸進出を目論む敏腕経営者でした。同じような野心家同士、利害が一致して、蔦重は永楽屋と提携して、永楽屋の江戸日本橋支店の足掛かりを作ってやりました。永楽屋は、伊勢松坂の国学者・本居宣長の「古事記」の板元で、江戸八丁堀に住む国学者・歌人の加藤千蔭や村田春海と付き合いがありました。蔦重は常々「これからは庶民も学問する時代だ」と考えており、何とか書物問屋株を手に入れて、学問書を出版する手筈を整えていました。
 「写楽」という画号を思いついたのも、八丁堀の加藤千蔭宅を訪問した際、隣家に浮世絵をたしなむ者が住んでいるが興味があるか、と言われ、さほど興味はありませんでしたが流れで絵だけ見せてもらった時、凡庸な絵の横に「写楽斎」と書いてあったのを見て、野暮な洒落だと印象に残っていたからでした。
 蔦重は、永楽屋から是非本居宣長に会った方がよい、と言われていました。本居宣長は、木綿商の次男で一時は江戸で商売の勉強もし、兄が早死にしてから家業を継いだものの、商人には向かないと決断して医業を学んで紀伊藩に仕官して御針医格となった異色の人物でした。医師をしながら、学問にも優れていたため、その名は当時の紀州10代目藩主・松平治宝(はるとみ)にも届き、学問好きの治宝は宣長を召し出し、自分と母の前で講釈させたりするほどでした。
 蔦重は、松坂(現・三重県松坂市)の本居宣長を訪問する名目で、寿平を荷物持ちの下男に扮装させて連れて行こうと考えました。尾張までは永楽屋東四郎の伝手を頼って、信頼できる旅籠に宿泊し、松坂で別れるという計画です。松坂行は、翌年春3月に行くことに決めましたが、役者絵をいきなり止めるのも不自然だろうと、最低限描くことにしました。そして保険として、秋頃上方からやってきた浮世絵師見習いの重田貞一(しげたさだかづ)という浪人を居候させて、寿平に絵の手解きをさせました。寿平がいなくなった後、この貞一に写楽を受け継がせればいいと、考えてのことでした。貞一は恋川春町の戯作のファンでしたが、大坂暮らしが長かったので、もちろん春町の顔など知る由もなく、寿平を東洲斎写楽という浮世絵師だと思いました。寿平は絵を教える以外、殆どしゃべりませんでしたが、貞一も自分の過去に触れてほしくなかったので、彼に干渉しませんでした。
 貞一の絵は、最初に描いていた鳥羽絵のようなものよりはマシになっていましたが、時々話す話が面白可笑しいので、寿平は「絵師より戯作者に向いている」と言いました。そう言われた貞一は、「実は難波で浄瑠璃本を書いたことがある」と答えて寿平や蔦重を驚かせました。蔦重は新しい戯作者を探してもいたので、何か書いて持ってきたらいい、と言いました。
 寛政7年1795年、歌舞伎の正月興行の版下絵は、殆ど貞一が描いたようなものでした。蔦重と寿平は完全に「写楽プロジェクト」に興味をなくし、3月の旅の準備に追われていたのです。
 
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