スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて ③

2010-01-11 23:21:58 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

「天誅組」の足跡を訪ねる前に、少し勉強しておきましょう。
私自身の?? の解決をするためにも、また幕末の歴史に詳しくない方のために簡単に説明すると・・・・

<「天誅組」とは何モノなのか? 何故、立ち上がったのか? >

「天誅組」とは・・・・1863年(文久3年)8月、徳川幕府を倒して天皇を中心とした新しい日本を創るさきがけになろうと立ち上がった、公爵・中山忠光を主将とし、土佐(高知県)出身の吉村寅太郎、三河(愛知県)の松本奎堂、備前(岡山県)の藤本鉄石の3名を総裁にして結成された尊皇攘夷派の志士なのです。

この忠光公は、決起当時は血気盛んな19歳。姉が明治天皇の母親で、叔父に当たる。もともと過激な言動と行動があり、文久3年3月には土佐の吉村寅太郎の誘いを受けて、無断で京都を脱出、長州に行き、森秀斎と名乗り、5月10日、軍艦庚申丸で外艦を砲撃するなど、かなりの行動派だったのです。

志士たちは、定まった出身藩を持たない下級武士・庄屋・神官・僧侶・農民・医者などで、京都の結成時には38名。そのうち18名が土佐脱藩浪士、8名が久留米脱藩浪士などで、13歳から46歳までで20歳代若者中心の志士でした。


▲出陣する中山忠光(天誅組出発之図 水郡睦子氏蔵より)  五條市教育委員会発行の「天誅組の変」パンフより


彼らの足跡は、京都・方広寺・・・伏見・・・大阪・常安橋・天保山・・・堺・旭橋・・・狭山・・・富田林・水郡邸・・・河内長野・観心寺・・・千早峠・・・大和・五條代官所(現・五條市役所)・・・<大淀町・千石橋>・・・十津川・天辻峠・・・<高取城・重阪峠>・・・下市町・栃本・永全寺・・・広橋峠・・・西吉野村・白銀岳・・・大塔村・辻堂・・・十津川村・上野地・・・十津川村・風屋・・・小原・・・折立・・・下北山村・浦向・・・正法寺・・・上北山村・白川・林泉寺・・・伯母ケ峰・・・川上村・柏木・・・川上村・武木・・・東吉野村・鷲家口・・・鷲家となります。




1863年8月14日(今日の9月26日)に京都を出発。東吉野村・鷲家で壊滅となるのが9月24日(今日の11月5日)までの40日に及ぶ死闘を繰り広げ、明治維新より遡ること5年、明治維新のさきがけとなった天誅義士の無念の足跡が大峰の険しい山々を中心に残っています。


<『天誅組』なのか『天忠組』なのか?>

この『天誅』という言葉は、「天に代わって悪者をやっつける」という意味で、この時代には、江戸幕府を倒すことを「てんちゅう」と呼んでいたとか。
天誅を天忠と書き換えて「武士の支配する政治をやめて天皇の政治をしよう」という意味を持たせたたのでしょうか。
一方、「天忠党」とか「天仲組」「天朝組」なんて書かれているものもあるとか。



「月刊・なら」に「それぞれの天誅組」を寄稿されている草村克彦氏は、次のように述べておられる。

彼らは、結党した最初から名乗ったのではなさそうで、「御政府」とか「皇軍御先鋒」とか名乗っていて、文久2年(1862年。決起の前年)に、京都で起きた「天誅事件」の影響で、幕府の役人やそれ寄りの公家・商人などを襲えばなんでも、天に代わって成敗する意味のことを「天誅」と解釈したようだと・・・。
更に、伴林光平の『南山踏雲録』には『天忠』とある。従軍医師を勤めた井澤宜庵が、北山路を敗走した折詠んだ漢詩の冒頭に『天忠党』とあります。いずれも隊士直筆で、隊士自身が自らの集団を『天忠党』と称していたことがうかがえます。
合言葉を『天』と『誅』と定めたことは、半田門吉の『大和戦争日記』にみえ、十津川・上湯ノ川の老女の証言もあって、確かなことですが、これから天誅組の呼称が生まれたというのは俗説でしょう。
ですから本来なら「天忠組」といったほうが正しいと思われますが、今は「天誅組」がポピュラーになっているので、私もそれに従いました、という事なんです。
また、確か保田與重郎先生も著書『評註 南山踏雲録』で、「天忠組とした方がよいと思う」と書かれていたと思います。
と述べられ、氏は当初から「忠」派であるといわれている。


<何故、京都・方向寺に集合し決起したのか?>

方向寺が位置するのは京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527。京都国立博物館のすぐ近くです。
参集したのは午後2時頃。武装した浪人が集まれば人目につく。新撰組が来るかも知れない。いかに皇軍御制先鋒とはいえども、危ない。そこで比較的参詣者が少ない方広寺に決まったとか・・。
そして家並みの多い伏見街道を進み、伏見から船で大坂に向かったのです。

▲この方向寺は、天正14年豊臣秀吉が奈良の大仏より大きい高さ19メートルの大仏を建てたのですが、その後の地震や火災で今は石垣と本堂、大黒天堂、鐘楼が残るだけです。
この広い境内で志士たちは決起したのです。


▲この境内にある鐘楼を志士たちは見上げたのでしょうか?  大坂夏の陣の引き金になった梵鐘です。「国家安康」「君臣豊楽」この8文字で豊臣家は滅亡したのです。


船に乗る伏見港には多くの船宿があり(あの寺田屋もその中の一つ)、三十石船3艘を雇い、武器・武具を積み大坂に向かいます。土佐堀川を進み淀屋橋を通り常安橋に接岸。土佐堀2丁目の船宿に泊まります。
翌日、別の船で安治川を下り天保山を経て、堺港に向かいます。

上陸した堺の市役所には「天誅組上陸繋船の楡(にれ) 大正15年4月」と書かれた石碑が建っています。楡の木に船を繋ぎ上陸したのでしょう。

堺で宿泊し、西高野街道(現在の国道310号)を南へ進みます。途中、狭山藩から武具・武器・食料・塩を差し出す約束を取り付け、甲田村(現在の富田林市)水郡善之祐邸で河内勢70名と合流。一行は、観心寺に向かうのです。


明日は、大阪・富田林にある「水郡善之祐邸」と「観心寺」を訪ねたいと思っています。


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (なりちゃんじいじ)
2010-01-12 13:18:25
こんにちは!
「天誅」という言葉聴きますが、中身は良くわかりません。勉強させていただきます。竜馬伝でも出てきますか?
返信する
Unknown (ヒキノ)
2010-01-12 19:22:20
司馬遼太郎の「街道をゆく・・十津川街道」で扱われたように記憶しています。あの文章を読んで私も足跡を尋ねたいと思ったことがあります。あの本を再度読んでみたい。
スターアニスさんの紀行を楽しみに読み進めて行きたいと思います。
返信する

コメントを投稿