スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

「長谷寺参詣之栞」を調べる

2009-12-03 22:02:13 | 出来事

珍しい昔の「長谷寺のパンフレット(参詣之栞)」のコピーを手に入れた。
この古いパンフは、いつ頃使われていたものか・・・調べてみた。


▲5枚折りになっていたパンフの裏面。俯瞰図で描かれています。


▲国鉄線は白黒線、赤色は大軌(大阪電気軌道・・・現在の近鉄)。桜井駅から長谷駅までは長谷鉄道だったのか長谷駅のところに「長谷鉄・本社」の表示もある。

まず、文章の中に書かれているものの中に、「明治44年1月12日夜祝融の見舞ふ所となり、伽藍の一部である小池房中性院、即ち大講堂・奥書院・庫裡其他拾余棟の殿堂は、焼失の難に遭いました。 ~~省略~~  再建の業を努め、十有余年の歳月と、弐百萬圓の工費を費し、大正13年9月を以て此大事業を完成し・・・」とあることから、大正13年以降のものだといえます。

また、「櫻井駅で長谷鐡道に乗り換え・・・」とあることから・・・長谷鐡道の歴史を追いかけることが必要だ。

では、パンフ裏面に描かれている鉄道路線図を見てみよう。
櫻井から初瀬まで鉄道が走っている。それも初瀬で止まっている。これは赤い線で、国鉄ではないことがわかる。
「長谷鉄・本社」が初瀬の街の入り口にある。ちょうど、現在の165号線と旧初瀬町に入る道が交わる処だろう。
本社のある場所は、現在の大型バス駐車場辺りだろうか。

では、この赤い線路は・・・いつ頃のことなのか・・・。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
『国鉄桜井線の桜井駅より分岐して、長谷寺より1km手前の初瀬駅に至る鉄道を初瀬参拝輸送などの目的で建設することになり、1909年(明治42年)に開業した。
会社は当初「初瀬軌道」と称したが、後に「初瀬鉄道」と改称し、さらに大正になると「長谷鉄道」に再編するなど、改変を繰り返した。
その後、近鉄の前身である大阪電気軌道(大軌)が子会社の参宮急行電鉄(参急)を設立し、桜井駅から伊勢神宮へ向かう路線を建設することになったが、長谷鉄道ではこれが開業すると全線で並行する形になるため、会社では競争を避け補償も兼ねる目的から、1928年(昭和3年)に大軌へ合併することにして同社の長谷線となった。
その後、1929年(昭和4年)に参急線が開業すると、乗客も予想通り激減したため1938年(昭和13年)に廃止された。』

桜井市史によれば、大正10年頃は長谷鉄道全盛期だったとか。
昭和10年頃から「レールカー」と称する「バス式のガソリン車」だったとも・・・。
昭和13年までは参急線と並行して走っていたが、自動車の発達で廃線となった。この線路跡は現在の165号となっているのだろう。
初瀬駅の跡地も、大型バスの駐車場で、今も広々していてその面影がしのばれる。

また、大阪電気軌道の歴史をみると、
昭和4年1月に、大和八木駅から桜井駅へ延長。
昭和4年10月に、桜井駅から初瀬駅間が開通。
昭和6年10月に、参宮急行電鉄(参急)が伊勢の宇治山田まで全通。中川駅乗換えで名古屋とも連絡。


地図では、この大阪電気軌道の初瀬から伊勢方面の線路が描かれていないことから、昭和6年10月までのパンフと考えられるのです。
つまり、初瀬駅から中川・伊勢方面に線路が延伸されるのは昭和6年10月以降なのです。
大正13年以降から昭和6年(1931年)までに印刷されたもの・・・と推察されるのだが・・・どうだろう。

約80年ほど前の「長谷寺のパンフレット」・・・歴史が物語る1枚の栞です。



▲「長谷寺パンフ」の表面。『参詣之栞』と記され、略縁起、勝景、寶物などが紹介されている。

▲本堂です。当時は登回廊の周りには杉の大木があったことが分かります。上のパンフに掲載の部分をアップしたものです。


▲小池房と呼ばれていた、本坊と大講堂の全景です。やはり、杉の大木が林立しています。


▲昨年の本坊と大講堂の全景です。上の写真と比べてください。

コメント
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