いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

女の厄年 90編

2005年11月12日 06時53分29秒 | 娘のエッセイ
 三十三歳は女の厄年である。三十三という数字から、「散々な目に遭う」など
とも言われているけれど、一方ではじょせいの三十三歳の身体は変化しますよ、
用心しなさいという意味の厄年だとも言われている。

 私は現在、満三十三歳。川崎大師流の厄年だと、今年は後厄。数で言えば、も
う厄は終わったことになる。まぁ、どちらにしても、本厄が終わりホッとしてい
るというのが本音だ。なにせ、私の三十二歳から三十三歳にかけては、ほんと
に、ほんとに、厄年だったのだから。

 厄年の幕開けは、突然の腹痛に始まった。三十二歳の十一月の出来事だっ
た。痛みの部位と痛み方から、これは婦人科に違いないと思った私は、翌日か
かりつけの婦人科医のもとを訪れた。

とこるが、あろうことか、この医師は逃げたのである。私の話を聞くと、診察
もせずに「これは内科の病気だから内科に行くように」と。そしていつもの薬
を二週間分処方した。

 医師は恐らくこの時点で気付いていたに違いない。自分の診療ミスを、病気
の見落としを。なぜなら、私はこの婦人科に5年以上も通院していたのだから。
結局、私はやはり婦人科の病気との診断を内科で受け、別の総合病院の婦人
科を紹介された。

 子宮筋腫であった。それは、治療方針の選択をする余地も無いほどの大きさ
だったらしい。その場で入院日と手術日の予約を入れた。手術は年明けの1月
と決まった。

 不安だった手術も無事に済み、術後の経過も順調だった。そして何より良か
ったのは、同室の人達に恵まれたことだ。やることのない、お互いの痛みのわ
かる四人もあっまれば、賑やかなことこの上ない。

なんと退院間近には、若い看護婦さんから「この部屋はホテル?」と言われる
くらい、不思議に楽しい入院生活だった。

 そして三十三歳の九月、私は当時の彼と結婚をした。いぜんからそんな話は
あったのだけれど、延ばし延ばしにしていた私が「手術をしても筋腫予備軍だ
から、子供が欲しかったら早くつくるように」との主治医の言葉で(変な話だ
が)思い切って決めたのだ。

 その二ヶ月後に妊娠。けれどこの小さな命は、この世の光りを見ることもな
く、流れてしまった。たったの六週間で。切迫流産と診断された時には、もう
危ない状態だった。

まだ胎児とも呼ばれない胎芽のまま、初めての子は遠くに行ってしまった。と
ても、とても悲しい経験だった。けれども、経験は財産になる。私はまたひと
つの想像力を手に入れた。

六週間で死んでこれほどの悲しみなら、出産直前なら、また直後なら、あるい
は何年か育った後に亡くしたのなら、どんな悲しみにおそわれることだろうと、
今ならそう考えることができる。それから、周りの人が自分の体験を話してく
れたことも大きい。

 流産経験者は多かった。二度も流産した人もいた。こういう悲しみの時、何
よりも心に届くのは、多くの慰めの言葉より、同じ体験をした人の回顧だとい
うことも知ることができた。

 その貴重な経験を心にそっと納め、そして今年は良い年になることを私は願
おう。

 
 追記 娘は、この流産を原因とする「じゅうもう癌」で享年34歳の人生に幕を
    閉じてしまい、残念で堪らない。来年は七回忌。
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