1870年(明治3年)9月、明治新政府は太政官布告を出し、平民にも苗字を許す
こととなった。明治8年には、全国民にそれを義務づけた。この当時の人口の約
95%を占める人々には苗字がなかった。
名前博士の丹羽基二氏によると、日本の名(苗)字は世界で最も数が多く、推
定27万余になるという。世界でも数が多いのはフインランドだが、それでも3万
余である。中国の姓が約500、韓国の姓は480だそうだ。
その日本の苗字の由来は、8割が地名からきている。その地名について、国立
科学博物館の金井弘夫植物研究部長が全国の地名全てを調査(385,000件)し
ている。
それによると、全国地名ベストテンは、①中村、②新田、③原、④本町、⑤本
郷、⑥新町、⑦田中、⑧木村、⑨中島、⑩馬場であったと分析されている。
他方、県別姓をみると、東北では、佐藤、佐々木、工藤などが上位を占め、関
東、東海は鈴木が、西日本は田中が一位を占める県が多かったとのことである。
ところで、平清盛や千利休は、何故『たいら「の」きよもり』『せん「の」
りきゅう』とよばれるのだろうか。丸谷才一氏によれば、これは
『日本古代のい支配層を形成する豪族の一族をウジ(氏)と言った。一般民衆
の一族ではなく、天皇家に仕える有力者を中心とする父系の血族集団を指した。
そして、ウジのなかの有力家族の統率者がウジの上(カミ)として、族長の役
目を果した。この、ウジの上は、平安時代になるとウジの長者と呼ばれた。
ウジには、その守護神としてのウジの長者を祭るウジ神があった。やがて、
その地域の守護神もウジ神となった。ウジの名の付け方には二つあった。
第一は、職業をウジの名にしたもので、物部、中臣(ナカトミ)忌部(イン
ベ)、土師(ハジ)、膳(カシ)など。
第二は、居住している地域の地名によるもので、蘇我、平群、巨勢(コセ)
などで、どちらも5世紀の中頃にかけてウジの名が成立したらしい。
そこで、奈良時代(710)以後の貴族男子の名前は、ウジの名と個人の名と
を結びつけるとき、中間に「の」がはいることになった。蘇我入鹿(ソガのイ
ルカ)、菅原道真(スガハラのミチザネ)などである。
これは、蘇我というウジに所属する入鹿、菅原というウジに属する道真という
ことである。ところが、平安末期から鎌倉初期にかけて、ウジの意識が衰え、
イエ(家)の意識が強くなった。
この為、名(苗)字の由来は、イエの本拠地の地名(足利とか)によるとか、
動植物(楠とか)による等様々であった。そしてこのイエの名を個人の名と
が結び付くときは、ウジの名と違って直接的であったため、のんびりと「の」
がつくことはなかった。
従って、足利尊氏は、アシカガタカウジであり、古風にウジの名を付けて
名乗るときは、ミナモトのタカウジとなる。
しかし、戦国時代以後になると、このイエの名による呼び方が力を得た為、
ウジの名に個人の名がつくときも、「の」を入れないようになった。従って、
豊臣はウジの名であったが、豊臣秀吉をトヨトミのヒデヨシと「の」を入れ
て呼ばないのはその為である。』と述べている。
又、宮中における年始の歌会において、天皇・皇后が臨席し、国民の詠進歌
のうち秀逸を選んで入選者の名を呼び上げる時、この「の」を入れて呼び上げ
る。
ところで、世界で一番長い名前はというと答えは「SMILESスマイルズ」
SとSの間に1マイルもあると言う西洋のギャグ。
日本では、落語でお馴染みの「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水
魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所,藪ら柑子ぶら柑子、パイポ
パイポ、パイポのシュウリンガ、シュウリンガのグウリンダイ、グウリンダイ
の、ポンポコナーのポンポコピーの長久命の長助」。これは、おめでたい言葉
を並べたものである。
いずれにしても、国を運営するためには、戸籍を土台に国民一人一人を把握
し、徴税、徴兵、教育などすべてのの面で国に対する責任と義務を明確にする
のは国民が苗字を持ち、戸籍を確立することであった。
明治4年4月に戸籍法が制定され、同年7月に廃藩置県が、同年8月には、散
髪、脱刀、服装、結婚の自由を認めるなど、世界に類の無い無血大改革が成
就し、近代日本の誕生となったわけである。
今、橋本総理は、21席に向けて、6っの改革を推し進めている。その結果が
日本の新たな発展の原動力となる改革であることを願っている。明治の改革の
様に!
追記 平9年7月10日に記したものであるが、11月8日の日刊紙に「フジモリ
元大統領拘束」との突然の報道があった。ペルー国のために一身を
投げ打ってのチリ入国であった。今後の展開が心配されるが、それに
引き換え、フジモリ元大統領と同じ時期に活躍した橋本元首相の現
在は、一億円の政治献金疑惑に関わり、寂しく国会議員の身を引い
てしまっている。8年前は、あれほど輝いていたのに誠に残念である。
こととなった。明治8年には、全国民にそれを義務づけた。この当時の人口の約
95%を占める人々には苗字がなかった。
名前博士の丹羽基二氏によると、日本の名(苗)字は世界で最も数が多く、推
定27万余になるという。世界でも数が多いのはフインランドだが、それでも3万
余である。中国の姓が約500、韓国の姓は480だそうだ。
その日本の苗字の由来は、8割が地名からきている。その地名について、国立
科学博物館の金井弘夫植物研究部長が全国の地名全てを調査(385,000件)し
ている。
それによると、全国地名ベストテンは、①中村、②新田、③原、④本町、⑤本
郷、⑥新町、⑦田中、⑧木村、⑨中島、⑩馬場であったと分析されている。
他方、県別姓をみると、東北では、佐藤、佐々木、工藤などが上位を占め、関
東、東海は鈴木が、西日本は田中が一位を占める県が多かったとのことである。
ところで、平清盛や千利休は、何故『たいら「の」きよもり』『せん「の」
りきゅう』とよばれるのだろうか。丸谷才一氏によれば、これは
『日本古代のい支配層を形成する豪族の一族をウジ(氏)と言った。一般民衆
の一族ではなく、天皇家に仕える有力者を中心とする父系の血族集団を指した。
そして、ウジのなかの有力家族の統率者がウジの上(カミ)として、族長の役
目を果した。この、ウジの上は、平安時代になるとウジの長者と呼ばれた。
ウジには、その守護神としてのウジの長者を祭るウジ神があった。やがて、
その地域の守護神もウジ神となった。ウジの名の付け方には二つあった。
第一は、職業をウジの名にしたもので、物部、中臣(ナカトミ)忌部(イン
ベ)、土師(ハジ)、膳(カシ)など。
第二は、居住している地域の地名によるもので、蘇我、平群、巨勢(コセ)
などで、どちらも5世紀の中頃にかけてウジの名が成立したらしい。
そこで、奈良時代(710)以後の貴族男子の名前は、ウジの名と個人の名と
を結びつけるとき、中間に「の」がはいることになった。蘇我入鹿(ソガのイ
ルカ)、菅原道真(スガハラのミチザネ)などである。
これは、蘇我というウジに所属する入鹿、菅原というウジに属する道真という
ことである。ところが、平安末期から鎌倉初期にかけて、ウジの意識が衰え、
イエ(家)の意識が強くなった。
この為、名(苗)字の由来は、イエの本拠地の地名(足利とか)によるとか、
動植物(楠とか)による等様々であった。そしてこのイエの名を個人の名と
が結び付くときは、ウジの名と違って直接的であったため、のんびりと「の」
がつくことはなかった。
従って、足利尊氏は、アシカガタカウジであり、古風にウジの名を付けて
名乗るときは、ミナモトのタカウジとなる。
しかし、戦国時代以後になると、このイエの名による呼び方が力を得た為、
ウジの名に個人の名がつくときも、「の」を入れないようになった。従って、
豊臣はウジの名であったが、豊臣秀吉をトヨトミのヒデヨシと「の」を入れ
て呼ばないのはその為である。』と述べている。
又、宮中における年始の歌会において、天皇・皇后が臨席し、国民の詠進歌
のうち秀逸を選んで入選者の名を呼び上げる時、この「の」を入れて呼び上げ
る。
ところで、世界で一番長い名前はというと答えは「SMILESスマイルズ」
SとSの間に1マイルもあると言う西洋のギャグ。
日本では、落語でお馴染みの「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水
魚の水行末、雲来末風来末、食う寝る所に住む所,藪ら柑子ぶら柑子、パイポ
パイポ、パイポのシュウリンガ、シュウリンガのグウリンダイ、グウリンダイ
の、ポンポコナーのポンポコピーの長久命の長助」。これは、おめでたい言葉
を並べたものである。
いずれにしても、国を運営するためには、戸籍を土台に国民一人一人を把握
し、徴税、徴兵、教育などすべてのの面で国に対する責任と義務を明確にする
のは国民が苗字を持ち、戸籍を確立することであった。
明治4年4月に戸籍法が制定され、同年7月に廃藩置県が、同年8月には、散
髪、脱刀、服装、結婚の自由を認めるなど、世界に類の無い無血大改革が成
就し、近代日本の誕生となったわけである。
今、橋本総理は、21席に向けて、6っの改革を推し進めている。その結果が
日本の新たな発展の原動力となる改革であることを願っている。明治の改革の
様に!
追記 平9年7月10日に記したものであるが、11月8日の日刊紙に「フジモリ
元大統領拘束」との突然の報道があった。ペルー国のために一身を
投げ打ってのチリ入国であった。今後の展開が心配されるが、それに
引き換え、フジモリ元大統領と同じ時期に活躍した橋本元首相の現
在は、一億円の政治献金疑惑に関わり、寂しく国会議員の身を引い
てしまっている。8年前は、あれほど輝いていたのに誠に残念である。