ということは、「空=非実体」とは何かがわかれば、般若経典のエッセンスのエッセンスがわかるということである。
詳しくは徐々に述べていくが、まず要点だけ言っておくと、「空」とは字の印象で誤解されがちなのと違って「空しい」「空っぽ」という意味ではない。また単純に「何もない」と言っているのでもない。
微妙な違いだが、ただ「何もない」のではなく、「実体と呼べるようなものは、何もない」ということである。
「実体」には、東西の思想に共通の以下三つ定義がある。①それ自体で存在できる、②それ自体の変わることのない本性・本体がある、③永遠に存在する、である。
その反対の①それ自体では存在できない、②変わることのない本性はない、③永遠には存在しない、という三つの性質があれば、それを「非実体」という。
そして、般若経典は、すべてのものには右のような三つの性質があり、したがって「非実体=空」であると説いている。
「諸法皆是因縁生」という句は、①の性質を表現しており、「すべての存在は、縁起の理法・関係性によって生じる」ということである。
「法」という言葉には何種類もの意味があるが、ここでは存在という意味で、「諸法」は「すべての存在」である。
「因縁」とは、直接的原因が「因」、間接的な原因が「縁」で、一言にまとめると「因縁」となり、「縁起」と同じことを意味している。
つまり、ゴータマ・ブッダの教えから般若経典に至るまで一貫して語られてきた「一切の存在は関わりの中で存在している・生じている」という縁起の理法が、最初の句でしっかりと押さえてある。
そしてそれを否定的な言い方に換えると「一切の存在は関わりなしには存在しない」つまり「それ自体では存在できない」ということになる。
大乗仏教の三大論師(仏教の理論家)といわれるナーガールジュナ・龍樹に「縁起だから空である」という言葉があるとおりである。
「一切の存在」というのだから、当然、私も含まれていて、ふだん忘れがちだが、私は私だけで生まれてきたわけでも、生きていられるわけでもない。私は、私でない両親から生まれ、私でない様々なもの(者と物)のおかげで生きている。
これは仏教で説かれるかどうかに関わりない事実であり、その事実を「縁起」「縁起の理法」という言葉で表現しているのだ、と筆者は解釈している。