般若経典のエッセンスを語る24

2020年10月22日 | 仏教・宗教

 少し抽象的な言い方になったので、具体的な例をあげて説明していこう。

 例えば私は、いちおう他のもの(者・物)とは区別できる存在だが、では、私だけで生まれてきて生きているのかとよく考えると、そうではないことがすぐにわかる。

 私は父と母とのつながり・縁によって生まれてきた。

 そして、両親だけではなく、実にたくさんの人との関わり・つながりによって生きている、というか生きることができている。

 そして、父と母にも父と母がいたのであり、さらにその先もいのちはつながっている。

 私は、先祖とのいのちのつながり・縁によって生まれた・生起したのである。

 さらに私も先祖たちも、水を飲み、空気を吸い、食べ物となってくれる様々な動物や植物や鉱物を摂り入れることによって生きてきた。

 そうした私ではないものとのつながり・縁が私たちを生かしてくれている。

 もっと広く根本的に見ていくと、すべてのいのちとそれを支える物は大地・地球の一部である。私は、地球とのつながり・縁なしには生まれることも生きていることもできない。

 こうしたつながりはさらに見ていくと、太陽系、銀河系、そして宇宙へと広がっている。私は、宇宙とつながった宇宙の一部として存在している。

 こうして見ていくと、私は、つながり・縁によって存在する「縁起的存在」であって、私だけで存在できる「実体」ではないことは明らかである。

 言い換えると、私は「無我」「空」なのである。

 そこのところ・縁起ということを筆者は、「私は私でないものによって私であることができる」という句で表現している。

 続いて今私は、いちおう他のものではない性質を持っているが、その性質は変わらない「本性」なのかと考えると、これもまたそうではないことがわかる。

 私は、本書をお読みの読者にとって著者であるが、私が読んでいる本の著者にとっては読者である。

 私の「著者」「読者」という性質は、相手との関係・つながりによって変化するのであって、変わらない「本性」ではない。

 お読みいただいていいと感じた読者にとって筆者は「いい」という性質の著者になるわけだが、つまらない、面白くない、役に立たないと感じた読者には「ダメな」著者になる。

 ある時にはあり、ある時はなくなるような性質を「属性」という。私が「いい」か「ダメ」かは、読者との関係・つながりによって決まる「属性」であって変わることのない「本性」ではないのである。

 つまり私は「無自性」であるというほかない。

 そうだとすれば、この点でも私は「非実体・空」であるということになる。

 さらに、次の「無常」との関わることだが、私の性質は、時によって変化していく。

 かつて遠い昔は幼い赤ん坊であり、やがて小さな少年に変わり、若い青年に変わり、大人の中年になり、やがて今は老いた人・高齢者になっている。

 「幼い」「小さな」「大人の」「老いた」という性質は、変化する「属性」であって変わることのない「本性」ではない。

 私には確かに時々で「属性」はあるが「本性」はないというほかない。

 このように、私には関係と時間によって変わっていく「属性」はあっても、「本性」があるとは言えない。「無自性」であり「非実体・空」であるということになる。

 こうしたことは、私・筆者だけのことではなく、読者にとっても、ふだんあまり意識しないことだろうが、言われてみると気づかざるをえない事実だと思うが、いかがだろうか。

 そして、こうしたことは私や人間一般だけのことではなく、すべてのこと・ものに当てはまることだ、と大乗仏教は説いている。

 大乗仏教は、これらの三つのこと、「それ自体で存在できるものはない・ゼロ」「それ自体の変わらない本体・本性を持ったものはない・ゼロ」「永遠に存在できるものはない・ゼロ」ということを一言に「空・ゼロ」と表現したのだ、と筆者は理解している。

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