般若経典のエッセンスを語る18

2020年10月15日 | 仏教・宗教

 以下は『八千頌般若経』の句である。

 『八千頌般若経』は『大般若経』の中の四番目「第四分」に当たるもので、また、鳩摩羅什訳の『小品摩訶般若波羅蜜経』の原典に相当する。「小品」と言っても、かなり厚みのある文庫本二冊に翻訳されていてかなりの分量であるが、その中に、智慧と慈悲に関して非常に要領よく述べた言葉がある。(中公文庫『大乗仏典〈3〉八千頌般若経Ⅱ』、一七六―七頁)

 

……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。

 それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかないからである。彼には「私はあらゆる有情を解放しなければならない」という、こういう性質の諸誓願があるのである。

 

 菩薩・大士は、空を追求する。とことん追求し空と一体化してしまうと、あとはもうやることは何もなし、涅槃・解脱ということになってしまいそうなものだが、その手前で「いや、涅槃・解脱はやめた。慈悲で行く」と。空の覚りを、その手前ギリギリまで徹底的に目指す。しかし、最後の最後で、入りきってしまわず戻ってくる。だから最高の難行なのであるという。

 「有情」は「衆生」とも訳される。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを「誓願」というが、まさに諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士あるいは菩薩・摩訶薩である。

 これは日本の思想一般における「志に生きる」という言葉と言い換えてもいいと思う。

 そして、その内容は非常に明確で、一切衆生を救おうという志があって、そのためにはあれもしようこれもしよう、できるあらゆる手段を尽くそう、というのである。

 戻ると、先の箇所には、自分が究極の安らぎ・智慧を得るという「自利」と、慈悲という「利他」、これを一つのこととして探求するのが菩薩・摩訶薩だと説かれている。

 あらゆる生きとし生けるものを解放し救いたい・救わねばならないという諸誓願、これが大乗仏教-般若経典のエッセンスだ、と筆者は理解している。

 であるから、繰り返すが、大乗仏教は空だけでは不十分なのである。空だけではエッセンスにならない。空と慈悲が一つのこととして探求される、それが大乗仏教のまさに「大」たる所以である。そういう意味で、まさにものすごく大きな乗り物なのだと思う。

 

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