般若経典のエッセンスを語る26

2020年10月23日 | 仏教・宗教

 「一切皆空」「すべては空である」という言葉がある。これを「すべては空である。すべては空しいのだ」と誤解をする方が、仏教の内部にさえおられる。まして、一般の人は一切皆空とか空というと、「仏教は何か『すべては空しい』ということを言っているのだ」と誤解してしまうが、そうではないということを繰り返し語り書いてきた。

 ここでも要点だけ述べておこう。

 さらにもう一つ、「苦だから空である」という言葉がある。これは、これまでのものとはかなりニュアンスが違うので、セットにしないほうがよかったのではないか、と僭越ながら筆者は批判をしている。

 「苦」、サンスクリット語カタカナ表記で「ドゥッカ」の意味は、苦しみというより、むしろ「思いどおりにならない」ということである。

 「思いどおりにならないから空である」とは、すべては実体ではないので掴んで操作して思いどおりにすることはできない、ということである。

 ところがほとんどの人は、自分にとって大切なものは実体である、というか実体であってほしい、実体であるはずだと思い込んでおり、もともと思いどおりにできないものをあえて思いどおりにしようともがくからすべての苦しみが起こるのだと。それが仏教の苦の捉え方である。

  そして、そういう苦に捉えられていることは心のあり方としては空しい、という意味も含めて、そこに「空」という言葉を使ったのだろう。

 そういう意味では「苦だから空である」と言ってもいいのだが、「一切が苦だから空である」という言い方をすると、よほど上手に説明されて納得しないかぎり、「やっぱり空って空しいことなのか」という誤解が起こる。

 そういうわけで、空に関して説くのは縁起から一如までで終わりにして、苦については別に説明したほうがよかったのではないか、と筆者は大乗仏教の説き方について思っており、僧侶の方にお話しする機会があった時には、「檀信徒には苦の話は空とは区別して話していただいたほうがいいのではないでしょうか」とお願いしている。

 「空」とはこれまで述べたような意味で、特に空とは一如は同じ、というところが大乗仏教にとっては非常に大事だ、と筆者は思っている。

 私そのものが、生まれて、成長し、老いて、死ぬという「無常」の存在であるから、そういう意味ではそもそも私は実体ではない。「無我」ということである。

 「無常」というところだけ見るととても悲しいことのように感じられるが、しかし実は、それは同時に私と宇宙が一体だということでもある。

 個別の孤立した実体としての私がいると思いながら、実はいないという事実に出会うと、とても不条理感を感じるが、私は宇宙の一部として現われていて、現われている今も宇宙の一部であり、消えてしまった後も宇宙は宇宙である、すなわち「一如」だということがわかると、私ということに対するこだわりを持つことは、できないしする必要ない。それが頭だけではなくて全心身でわかると、それを「覚り」というのである。

 筆者自身は、まだまだ学びの途上にあって行き着いてはいないので、こだわりがまったくなくなったという嘘は言えないが、それでも次第に「うん、そういうことか」という頷きが深くなり、こだわりが軽くなっていることは実感している。

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般若経典のエッセンスを語る25

2020年10月23日 | 仏教・宗教

 歴史的なブッダの言葉に近いとされる『阿含経』では、ブッダは、そうした実体ではないということを主に「無我」という言葉で表現している。「空」という言葉もまったく使っていないわけではないが、あまり多くない。

 「無我」と「空」はほとんど同義語であり、「無我だから空である」という、まるで同義語反復のような言葉もある。

 では、なぜ大乗仏教・般若経典では「無我」よりも「空」という言葉を強調するようになったのだろうか。

 その理由について、筆者の知るかぎり般若経典そのものには語られていない。したがって、以下は筆者の推測・推論である。

 大乗仏教の修行者・菩薩たちは、瞑想と思索を深めた結果、「すべてが縁起であり、すべてがつながっているのならば、ぜんぶ一つにつながっているというのがほんとうのありのままの姿である」「すべては一体である」ことに思い至り、それを「一如」という言葉で表現したのだと思われる。

 そういう定型句はないようだが、「縁起だから一如である」という言い方もできるだろう。

 第一章で引用・紹介したとおり、『大般若経』「初分仏母品第四十一」に「あらゆる如来応正等覚の真如、あるいはあらゆる有情の真如、あるいはあらゆる存在の真如は、二つでなく別でなく、これは一つの真如なのである」とあった。

 無我という用語は、「実体がない」ということだけを表現していて、この一如性が表現しきれていない。それからこれまで話してきたようないろいろ言葉がある。

 そこで、大乗仏教の修行者たちは、こういう意味合いをぜんぶ一言に凝縮して「空」という言葉で表現しようと考えたのではないか、というのが私の推測である。

 確かにそういうことは経典には書いてない。しかし、すでにこの「無我」という原始仏教のコンセプトで空の内容はほぼ語られているにもかかわらず、なぜ大乗仏教の人たちは「空」という言葉を強調したのだろうか。

 それは、「すべてのありのままの姿は一体である」ということをさらに強調して表現し、そしてこれらの言葉を一言に込めるのに、「空」という言葉を使ったのだと解釈するとすんなり理解できるのではないだろうか。

 「すべてのものが実体ではない」というと何か頼りないような気がするが、すべてがつながりあっている、つながりあって一体である、宇宙はぜんぶ一体であるというところまで行くとポジティヴになる。

 特に「無常」や「無我」と言うだけだと、とてもネガティヴに捉えられがちだが、「一如」というところまで行くと非常にポジティヴに捉えられる。

 ポジティヴに捉えて、しかしそれがまたいつの間にか実体だと誤解されないためにあえて「空」という言葉を使ったのだと考えると、なぜ空という言葉が大乗仏教で強調されたか、そしてそこにどういう意味があるのか、理論的にはほぼこれで説明できる、と私は考えている。

 ただあくまでも筆者の知識の範囲での解釈なので、もしより説得力のある解釈が他にあるのをご存じであれば、ぜひご教示いただけると幸いである。

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