「一切皆空」「すべては空である」という言葉がある。これを「すべては空である。すべては空しいのだ」と誤解をする方が、仏教の内部にさえおられる。まして、一般の人は一切皆空とか空というと、「仏教は何か『すべては空しい』ということを言っているのだ」と誤解してしまうが、そうではないということを繰り返し語り書いてきた。
ここでも要点だけ述べておこう。
さらにもう一つ、「苦だから空である」という言葉がある。これは、これまでのものとはかなりニュアンスが違うので、セットにしないほうがよかったのではないか、と僭越ながら筆者は批判をしている。
「苦」、サンスクリット語カタカナ表記で「ドゥッカ」の意味は、苦しみというより、むしろ「思いどおりにならない」ということである。
「思いどおりにならないから空である」とは、すべては実体ではないので掴んで操作して思いどおりにすることはできない、ということである。
ところがほとんどの人は、自分にとって大切なものは実体である、というか実体であってほしい、実体であるはずだと思い込んでおり、もともと思いどおりにできないものをあえて思いどおりにしようともがくからすべての苦しみが起こるのだと。それが仏教の苦の捉え方である。
そして、そういう苦に捉えられていることは心のあり方としては空しい、という意味も含めて、そこに「空」という言葉を使ったのだろう。
そういう意味では「苦だから空である」と言ってもいいのだが、「一切が苦だから空である」という言い方をすると、よほど上手に説明されて納得しないかぎり、「やっぱり空って空しいことなのか」という誤解が起こる。
そういうわけで、空に関して説くのは縁起から一如までで終わりにして、苦については別に説明したほうがよかったのではないか、と筆者は大乗仏教の説き方について思っており、僧侶の方にお話しする機会があった時には、「檀信徒には苦の話は空とは区別して話していただいたほうがいいのではないでしょうか」とお願いしている。
「空」とはこれまで述べたような意味で、特に空とは一如は同じ、というところが大乗仏教にとっては非常に大事だ、と筆者は思っている。
私そのものが、生まれて、成長し、老いて、死ぬという「無常」の存在であるから、そういう意味ではそもそも私は実体ではない。「無我」ということである。
「無常」というところだけ見るととても悲しいことのように感じられるが、しかし実は、それは同時に私と宇宙が一体だということでもある。
個別の孤立した実体としての私がいると思いながら、実はいないという事実に出会うと、とても不条理感を感じるが、私は宇宙の一部として現われていて、現われている今も宇宙の一部であり、消えてしまった後も宇宙は宇宙である、すなわち「一如」だということがわかると、私ということに対するこだわりを持つことは、できないしする必要ない。それが頭だけではなくて全心身でわかると、それを「覚り」というのである。
筆者自身は、まだまだ学びの途上にあって行き着いてはいないので、こだわりがまったくなくなったという嘘は言えないが、それでも次第に「うん、そういうことか」という頷きが深くなり、こだわりが軽くなっていることは実感している。